城のあった場所は烏丸下立売交差点の西側、現在の平安女学園の校舎付近で、敷地の片隅に「旧二條城跡」の小さな石碑があります。観光客で賑う徳川期の二条城は位置的には少し南西にあたります。
上の写真の石垣は、地下鉄烏丸線建設の際に発掘された石垣で、現在は京都御苑の椹木口付近に展示されています。どこまで正確に復原されているのかは分かりませんが、明らかに転用石と思われるものや不ぞろいな石が非常に乱雑な積み方をされています。ほんとにこんな石垣だったのでしょうか? 
信長を頼り、越前朝倉氏のもとを退去して身を寄せた足利幕府最後の将軍、足利義昭。信長に奉じられて上洛を果たし、征夷大将軍に就き、信長を「父」とも慕った義昭。しかし、旧来の権威をまったく畏れもしない信長との密月も長くは続かず、信長包囲網の黒幕として暗躍したのも敵わず、京を追われた義昭。己の運命に弄ばれた、流浪の人生でした。その義昭のためにこの城を築き、そして自らの「天下布武」を完成させるために、その義昭をこの城から追い、そしてその天下布武の完成を水して、自らはここから程近い本能寺に倒れ、嫡子信忠もすぐ隣にあった二条御所に倒された信長。おのれ自身の光彩があまりにも激しすぎて自らをも焼き尽くしてしまった信長。彼もまた、運命に弄ばれたひとりだったのかもしれません。
今は小さな石碑と復原されたわずかな石垣しか残らないこの城で、日本の歴史の歯車は大きく回ったのでした。そして幕末には、この石垣のすぐ近く、蛤御門での戦闘が、ふたたびこの国を大きく動かしました。