名族千葉氏発祥の地

大椎城

おおじいじょう Oojii-Jo

別名:

千葉県千葉市緑区大椎町

城の種別

平山城

築城時期

平安時代末期  

築城者

上総介平忠常

主要城主

千葉氏、土気酒井氏

遺構

曲輪、土塁、空堀、切通し

主郭虎口に建つ城址の碑<<2002年03月09日>>

歴史

平安時代末期、上総介平忠常が築城しその曾孫・下総権介千葉常兼が修復した。大治元(1126)年、常兼の嫡子、常重は大椎城から新たに亥鼻城を築城し移った。戦国期には土気酒井氏の支配下に入り支城として大規模な改修を受けたと思われる。

下総の名族、千葉氏の古い本拠地でありますが、現在見られる遺構は間違いなく戦国時代のもので、土気城の酒井氏が支城として整備したものと言われています。
遺構は非常に良好に残っています。妙見社や井戸跡もあるらしいのですが、それは見つけられませんでした。房総、とくに下総方面によく見られる、舌状台地先端を掘り切って直線的に並べた「直線連郭式」の城郭で、縄張りやその技法にはさして技巧的なところはありません。ただ、前述の通り、戦国期に拡張・整備されており、横矢の掛かった幅の広い堀や、出構え状の小曲輪など、鉄砲戦を意識したのかな?と思われるような技法が見られます。周囲には出城、支城もあったらしいのですが、宅地化によって多くは消えてしまったことでしょう。
城址の入り口がなかなか分らず、城址北側、新大椎橋の東側の「管理用道路(水源施設の管理用らしい)」を入って、堰堤状の土手からアプローチ。しかし驚いた頃に、この城址北側には歩道が整備されていて、下草もきれいに刈られていました。おかげで腰曲輪や横矢の掛かった堀がよく見られたのですが、発掘か史跡整備でも始まるのでしょうか?それとも、考えるのもおぞましい宅地化の前触れなのでしょうか?

余談ですが、この大椎城周辺は、バブルで名を馳せた超高級住宅地「チバリーヒルズ」(正式名はOne Hundred Hills)でして、「こんな山の中に・・・」と呆れるくらいの豪邸が建ち並んでいます。が、バブル崩壊により今や住民も数少なく、当時15億といわれた分譲地もいまや1億・・・。しかも、ここは本来、「要害台」といわれた出城(あるいは物見)があったところ。その丘を切り崩して造成して、遺構は永遠に失われ、そして今やそのバブル住宅街そのものが「バブルの遺構」となりかけている現実・・・。因果応報とでも言いましょうか、なんというか、史跡と土地利用の問題を改めて考えさせられました。

バブル住宅地のはずれにほぼ手付かずに残る大椎城を新大椎橋から見る。手前の村田川が天然の堀。

城の東側、村田川沿いにツノのように突き出た出丸。三つあるらしい。近代鉄砲戦を意識したものか?新府城の出構えに似てる。

北側の歩道沿いには腰曲輪や横矢を伴う堀、櫓台状の高台がたくさん。下草がきれいに刈られているのは史跡整備のためだと思いたい。(訂正:単に水源地保護のためらしい。かつ、自然地形らしい。) 三郭と四郭(東要)の間の「三の堀」。堀の規模は小さいながらも鋭い横矢が掛かっています。

。こちらは二郭(右)、三郭の「二の堀」。二郭には土塁が良く残り、堀も深く横矢が鮮明に見て取れます。 同じく二の堀。鋭く掘り切られた薬研堀です

二郭は土塁が良好に残っています。写真手前にはひときわ大きな櫓台らしき土塁も。 二郭土塁から二の堀を見下ろす。高さも技巧面でもここが最も戦国城郭らしいところ。
何の変哲も無い平入りの主郭土塁虎口。このあたりがあんまり技巧的じゃないんだな。 「一の堀」は幅は最大級だが土塁を伴っていない(破壊された?)ので迫力はイマイチ。横矢もありません。

主郭南東の比較的大きな土塁。一部しか残っていませんが、もともと一部なのか?それともさっきの堀を埋めるのに壊してしまったのか? 主郭(西要)は雑木林に。この写真中央の気持ち低くなっているところは堀跡で、かつて南北の腰曲輪を結んでいました。主郭は二つの曲輪に分かれていたということか?

二郭付近からながめたかつての根古屋地域。絶景とは言えないまでも、上総の南方向へ眺望が利きます。 根古屋地区を流れる村田川。妙な折歪みがあり、もしかしたら人工的に流路を変えたのかも。

 

 

交通アクセス

東金有料道路「中野」ICから車15分。JR外房線「土気」駅徒歩20分。

周辺地情報

土気城が車で10分くらいです。

関連サイト

 

 
参考文献 「房総の古城址めぐり(下)」(府馬清/有峰書店新社)、日本城郭大系(新人物往来社)

参考サイト

余湖くんのホームページ房総の城郭

 

埋もれた古城 表紙 上へ