関東管領を支えた白井長尾氏の城

白井城

しろいじょう Shoroi-Jo

別名:

群馬県北群馬郡子持村白井

城の種別

崖城

築城時期

永享年間(1429〜1441)

築城者

長尾景仲

主要城主

白井長尾氏、真田氏、本多氏

遺構

曲輪、土塁、堀、石垣

本丸枡形の石垣<<2001年7月15日>>

歴史

築城時期は定かではないが、関東管領家、山内上杉氏の重臣であった長尾景仲の築城といわれる。長尾景信の死後、管領家家宰職の相続をめぐり家督争いが勃発、長尾景春が鉢形城を築いて立て籠もった(長尾景春の乱)。白井城は山内上杉の重要拠点として機能した。長尾景春と同盟する古河公方・足利成氏によって攻められもした。

天文十五(1546)年の河越夜戦で上杉家の勢力が衰退し北条氏が侵攻してくると、山内上杉憲政は天文二十一(1552)年、平井城を捨て越後に亡命、以後、永禄三(1560)年以降、白井城は上杉謙信の関東出陣の際の基地の一つとなった。永禄十二(1569)年、甲相駿三国同盟が崩れると北条氏康は上杉謙信と同盟した。武田信玄は上州へ侵攻、永禄十三(1570)年には岩櫃城の真田幸隆が白井城の長尾憲景を攻め一時開城させた。元亀二(1571)年、北条氏康の死後、氏政により甲相同盟が復活すると翌年、ふたたび真田幸隆が侵攻し白井城は武田の属城となった。

天正元(1573)年、信玄の死後は白井長尾氏は上杉氏−北条氏−滝川(織田信長属将)氏−北条氏と主を変えた。

天正十八(1590)年の小田原の役では北関東防衛の要衝とされたが、4月下旬、上州松井田城を攻略した前田・上杉氏らの北方軍軍勢が白井城に攻めかかり、北郭を占領、長尾政景(憲景の子)は、5月15日、開城した。家康の関東入封後は、徳川譜代の本多氏が入城する。元和九(1623)年、廃城。 

渋川の市街から国道17号を北上すると、利根川と吾妻川の合流点の橋に差し掛かります。この橋の勾配を登りきってすぐ左側、宿場町の雰囲気を残す白井のはずれの崖の上に城はあります。利根川や荒川など、関東を流れる大河沿いには崖城が数多くありますが、この白井城もそんな城の一つです。

城域の殆どは農地になっていますが、それでも本丸周辺の土塁や堀、虎口の石垣などは明瞭に残っており、一見畑に見えるところもよく見ると堀だったりして、それなりに見学は楽しめます。

僕は、こういう観光地っぽくない、誰もいないような城跡が好きですね。

 

古い街並みが残る白井宿。 本丸曲輪。1.5mほどの武者走り状の土塁が取り巻いています。
いかにも粗っぽい、本丸枡形の野面積み石垣。戦国期の遺構ではなく、元和の時代のものらしい。
本丸曲輪、虎口西側へ伸びる堀。堀の西端は吾妻川の断崖(30m)に落ち込んでいきます。 本丸東の三日月状の堀と土塁。水がたまっていますが本来は空堀でしょう。
二ノ丸から北曲輪にかけては一面の農地。 農地に残る二ノ丸堀跡。
こちらは横矢がはっきり残る三ノ丸堀。農地になっても意外と地形がよく残っています。 北曲輪の櫓台。現在は城山不動尊になっています。
北曲輪外堀跡。左には「甲冑師・明珍信家鍛冶場跡」なる標柱もあります。 本丸南東の南曲輪。土塁の向こうは堀、手前は帯曲輪状の曲輪とわずかに石垣がありました。

 

 

交通アクセス

渋川伊香保ICより車20分

周辺地情報

沼田城名胡桃城など。 

関連サイト

子持村

 
参考文献 「上杉謙信・戦国最強武将破竹の戦略」(学研「戦国群像シリーズ」)、「上杉謙信」(学研「戦国群像シリーズ」)、「日本城郭大系」(新人物往来社)、現地解説板

参考サイト

群馬の城郭からっ風倶楽部武田調略隊がゆく

 

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