名城箕輪と一心同体

鷹留城

たかとめじょう Takatome-Jo

別名:亀城

群馬県群馬郡榛名町下室田

城の種別

山城

築城時期

明応年間(1500年頃)

築城者

長野尚業

主要城主

長野氏

遺構

曲輪、土塁、堀切、竪堀、土橋、石塁(?)等

鷹留城遠景<<2003年03月22日>>

歴史

上野国長野郷出自の豪族、長野尚業が明応年間に築き、その子憲業が箕輪城を築き本拠を移したといわれる。箕輪城築城後は、箕輪城の有力支城のひとつとなった。

弘治三(1557)年以降、武田晴信(信玄)による西上州侵攻が度々繰り返されたが、箕輪城主・長野業政は鷹留城をはじめとした支城網を駆使して、都度これを撃退している。業政は永禄四(1561)年頃には死去し、その後を業盛が嗣いだ。

永禄四(1561)年、信玄は国峰城を攻略、松井田城にも経略を仕掛けた。永禄六(1563)年、和田城主・和田業繁が武田に寝返り、十二月までに甘楽・多野地方を手中に収めて倉賀野城に攻めかかったが落城しなかった。箕輪城の城兵は板鼻、若田ヶ原などでこれを迎え撃った。翌永禄七(1564)年には松井田城、安中城も陥落、永禄八(1565)年には倉賀野城も落城し箕輪城は孤立した。

永禄九(1566)年九月、信玄は二万の大軍で侵攻、雉ヶ尾峠を越えた那波無理之助宗安が高浜砦を急襲、一時はこれを奪取したが箕輪城から救援に向かった安藤九郎左衛門勝通、青柳金王らによって奪回した。しかし武田方の小宮山らが里見城・雉郷城を陥とし、箕輪城鷹留城の連絡を分断した。鷹留城将の長野業通は弟・業勝、業固らをはじめ数百の手勢で迎撃、武田軍の小幡信貞らの一隊を一時は烏川南岸に押し戻すなど善戦したが、業勝は討ち死にした。翌日、業通、業固は山県昌景隊に突入したが、武田方の内藤昌豊、馬場信房隊に囲まれて、長野方の利根木隊の救援で辛うじて囲みを突破、鷹留城に戻ろうとした。しかし、このとき城内の内応者、男蟹谷直光らによって鷹留城内に火が放たれ、業通らはやむを得ず吾妻方面へと落ち延びて、鷹留城は落城した。箕輪城は九月二十九日に落城し、城主の業盛は箕輪城内の御前曲輪の持仏堂で自刃した。

難攻不落の名城・箕輪城は、それ自体の堅固さもさることながら、大小あわせて三百二もあったといわれる支城・砦に守られていたことでさらに堅固さを増していました。その中には地元の有力豪族の居館も多数含まれていましたが、鷹留城は長野氏一門直轄の最有力支城のひとつであり、箕輪城とは「別城一郭」をなす、一心同体の存在でした。孫子の兵法のいうところの「龍の頭尾」の関係、「その頭を打てば尾到り、尾を打てば頭到る、胴を打てば頭尾ともに到る」に当たり、寄せ手の背後に常に脅威を与え続けてきました。箕輪城攻略に執念を燃やす武田信玄は弘治年間から度重なる西上州侵攻を試みますが、孤高の名将・長野業政はその武略と支城網を巧みに駆使して、戦国最強といわれた武田軍団を翻弄します。業政はあるときは武田軍を油断させて別働隊をその陣に斬り込ませ、さんざん暴れまわった後に雉郷城やこの鷹留城に入り、武田軍がそれに気づいて攻め込んできた時には雉郷城はもぬけの空、鷹留城は守備兵に秘策を預けて、とうの本人はとっくの昔に箕輪城に帰っていた、といいます。やっきになる武田軍は秘策を預けられた鷹留城の城兵に鼻であしらわれ、箕輪城には近づくことも出来ずに甲斐に引き返していく、その繰り返しでした。

しかし名将業政の没後、若き当主・長野業盛の奮戦にもかかわらず、ますます力をつけた武田軍団の前に箕輪城はついに蹂躪されてしまいます。永禄九(1566)年、雉ヶ尾峠を越えた武田軍の那波無理之助は高浜砦を急襲、一時は長野方がこれを奪還するも、里見城、雉郷城を奪った武田軍によってついに箕輪城鷹留城の連絡は遮断されてしまします。武田方の作戦展開を見ても、いかにこの箕輪城鷹留城の連携を恐れていたかがわかる気がします。寄せ手は小幡信貞、山県昌景らの一騎当千の武田軍の花形たち。城将の長野業通とそのその弟・業勝、業固らは奮戦するも業勝討ち死に、やがて鷹留城は内応者の手によって火の手が上がり、支えきれなくなった業通らは鷹留城を捨てて吾妻に落ちていった、といいます。名城・箕輪城が落ちたのは、その二日後のことでした。

この鷹留城は、明応年間に長野尚業が築き、その子憲業(信業)が箕輪城を築いて移った、といわれます。城下には菩提寺の長年寺があることを考えれば、単なる一支城として捉えるよりも、ある時期には長野氏の本拠となり、箕輪城築城後も本拠に準ずる重要な位置にあったことが伺われます。箕輪城は溶岩台地上の丘陵に築かれた中世平山城でしたが、こちらは純然たる山城の構えであり、長年寺あたりからは1kmほども奥まった場所にあります。「一城別郭」といわれる構造である、とのことで、箕輪城と似たものを想像して行ったのですが、やはり地形的な制約からか箕輪城ほどの縄張の妙を見ることはできませんでした。「一城別郭」も、城域の途絶は完全とは言い難く、箕輪城式の城郭というより、松井田城などのほうに近いものを感じました。それでも大規模な堀切や竪堀、主郭をめぐる横堀状の帯曲輪や、搦手の土橋などの遺構はまったく見事なものです。一部、遺構なのかどうか判然としない石積みや、「もしかして連珠塞?」のようなものもあり、なかなか見る目を楽しませてくれます。難を言えば登山口が非常に判り辛いところでしょうか。途中、たくさんの歌碑が建っているのですが、できれば案内板の設置もお願いしたいところです。

梅の花越しに鷹留城遠景。最初全然関係ない山に登り、行ったり来たり戻ったりでやっとそれらしき場所を見つけましたが、今度は登り口が見つからず。久しぶりに迷走しました。 大手口に到着。ごくささやかな標柱があります。道沿いにはこんな歌碑もたくさんあります。この大手口あたりにある石積みは遺構なんでしょうか?

写真ではなんだかさっぱり「?」ですが、大手道沿いの竪堀です。

ゆるやかな大手道を歩いてまもなく、主郭附近の巨大な堀切が目に飛び込んできます。

ごく簡単な解説板と、大きな石碑の建つ主郭。

主郭の周囲は帯曲輪で囲まれていて、東側帯曲輪は土塁が伴っていて横堀のような様相を見せています。

出郭北側の堀切。ここは右写真の大土塁を間に挟んで、二重堀切となっていました。

主郭の北側堀切を挟んで対岸の大土塁。この上には小さな祠が祀られています。

大土塁北側の堀切。大土塁の上に立ってみると二重堀切のようすがよくわかります。

さらに北に向かうと写真のような明瞭な土橋が。ここが搦手にあたるそうですが、それにしても見事に残っていますね。

搦手附近は堀切に長大な竪堀が繋がっています。西側竪堀は道路建設で寸断されていますが東側はよく残っています。

搦手から主郭西側の帯曲輪を歩くと、なにやら起伏が。土塁と堀を交互に配置しているようにも見えます。もしかして連珠塞でしょうか?近くのお城だと松井田城にこんなのがあるし。。。

もうひとつ気になるのがあちこちにあるこんな石積み。単に崩落防止のために手を加えただけかもしれませんが、結構古いもののようにも見えるので・・・?

主郭南側の二郭との間を隔てる堀切。

二郭は墓地になっていました。お城が墓地というのは珍しくないですが、こんな鬱蒼とした高い山の上にあるのはちと不気味な気もします。

二郭と三郭を隔てる大堀切。ここからも竪堀が延びています。「日本城郭大系」ではこの堀切と竪堀を指して「一城別郭構造」と解釈しています。

右上の堀切から延びる竪堀。傾斜はかなり急です。

その竪堀附近にもこんな崩れた石塁みたいなのがあります。やっぱりお城の遺構じゃないのかなあ??

大手道から見上げる竪堀。

三郭南端をやや降りた場所の堀底道状の地形。こっちが大手だっていうこと、ありませんか?

鷹留城下の古刹、長年寺は長野氏累代の菩提寺。ぜひ立ち寄って行きましょう。

長野氏の墓所。中央が箕輪城を築いたとされる業尚公(慶岩長善庵主)、右から二番目が西上州の親分、業政公(一清長純居士)。最後の当主、業盛公のお墓はなぜかありませんでした。

Chizu.jpg (212705 バイト)

場所がなかなか難しいので、簡単な地図を描いてみました。これから見学する方はご参考に(なればいいですが・・・)

 

交通アクセス

JR信越本線「安中」駅よりバス(?)。

関越自動車道「高崎」ICまたは「前橋」ICより車20分。

周辺地情報

やはり箕輪城を是非見ていただきたいです。わが房総の雄、里見氏の故郷である里見城なども近くです。

関連サイト

 

 
参考文献 別冊歴史読本「戦国古城」(新人物往来社)、「戦国関東名将列伝」(島遼伍/随想舎)、「歴史と旅 1974.09号」(秋田書店)、「群馬の古城」(山崎一/あかぎ出版)、「日本城郭大系」(新人物往来社)、「関八州古戦録」(ニュートンプレス)

参考サイト

武田調略隊がゆく北条五代の部屋

お城めぐりFAN」のメーリングリストでの情報が大変役に立ちました。

埋もれた古城 表紙 上へ