あやしげな伝承に彩られた

御前山城

ごぜんやまじょう Gozenyama-Jo

別名:

茨城県東茨城郡城里町御前山

城の種別

山城

築城時期

不明

築城者

不明

主要城主

不明

遺構

曲輪、土塁、堀切、横堀ほか

主郭虎口の土塁<<2005年01月29日>>

歴史

築城時期、城主・城歴など一切が不明。伝承では承久年間(1219-12)に関白藤原道兼の子孫、藤原時房が築いたと伝えられる。そのほか伝承は数多く、南北朝期に楠木正家がここで包囲されて水不足により落城したという話、応永年間(1394-1427)に今宮大納言永義が在城したという話、また奈良時代に孝謙天皇が下野に配流となった僧・弓削道鏡と暮らしたなどとも伝えられるが、確証は全く無い。

御前山城に関する確実な歴史は何一つわかっていません。その割には伝承はやたらと多く、その中には歴史を揺るがす事件の当事者の名などもあったりして、なかなか華やか(?)です。

築城に関しては藤原時房が云々というのはおそらく全く違うでしょう。その他の伝承としては「南北朝期に楠木正家がここで包囲されて水不足により落城した」「応永年間(1394-1427)に今宮大納言永義が在城した」そして極め付けが「孝謙天皇が下野に配流となった怪僧・弓削道鏡と暮らした」などという怪しからん伝承まで様々です。孝謙天皇は養老二(718)年生まれ、日本史上6人目の女性天皇で、なおかつ退位後に称徳天皇としてもう一度帝位についています。一方、弓削道鏡は孝謙天皇の病気を治癒して以来、その信頼も篤かったという僧ですが、宇佐神宮の神託事件という一種の皇位簒奪疑惑事件の当事者となり、孝謙(称徳)天皇の死後、下野国に左遷されて生涯を終えたという、まあ言ってみれば奈良時代の怪僧でした。この孝謙天皇と道鏡の関係は後世いろいろと潤色され、多少淫靡な話になったりしているのですが、はっきり言って御前山城との関係などあろう筈もありません。こんな妙な伝承が生まれる背景にはこの附近が「常陸の嵐山」と呼ばれる風光明媚な地であること、そして「御前山」「皇都」などの地名から連想される高貴な人物の存在、そして各地に伝わる弓削道鏡伝説、道鏡巨根説などが渾然一体となり、女帝とその寵愛を受けた僧が風光明媚な片田舎で京を偲びながら愛の余生を送った、というような面白おかしい話に発展して行ったのでしょう。従って孝謙天皇・弓削道鏡居住説は却下とさせていただきます(笑)。

その他の伝承については多少の信憑性も感じられます。楠木正家の落城伝説についても確実なことは分かりませんが、正家は瓜連城の落城後に脱出に成功、一時奥州に逃れて後に京都に帰った、とされています。瓜連城の脱出後、那珂一族の勢力地であるこの地に逃れ、一時御前山城にいたとしても不思議ではありません。ただ楠木正家という人物自体が実在性に疑問があることなどもあり、推測の域は出ません。もう一つの伝承、今宮大納言永義についてですが、この人物は佐竹氏十七代・義篤の庶兄にあたる人物です。この人の活躍期は永正年間ごろから天分年間頃であり、応永年間が云々というのは全く違っていますが、この人は弟・義篤とは不仲であり、なおかつ宇留野家を嗣いだもう一人の弟、宇留野義元とは通じ合っていたと云われます。この宇留野義元が部垂城を攻め取ったところから部垂十二年の乱が始まるのですが、義元と通じ合っていた今宮大納言永義がもしかしたらこの御前山城にいたのかもしれません。永義がこの時代どこに居住していたのかはっきりとは分かっていませんが、太田城で部屋住みだったとも思えないので、蓋然性は無いとはいえないでしょう。御前山城の那珂川を挟んだ対岸には野口城があり、城主の野口氏も義元側に加担していますし、部垂の乱そのものが宇留野(部垂)義元による叛乱事件というだけでなく、那珂川中流域の一族家臣団の一揆的な様相も持っていますので、御前山城もその渦中にあった可能性もあるのではないかと思われます。

御前山城縄張図(左)、御前山城・野口城鳥瞰図(右)

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御前山城の遺構は山頂ではなく、東に突き出た尾根の先端部に位置していますが、この遺構もまた不思議なものです。主郭Tの西側には重厚な土塁と大きな堀切3があり、厳重に防御されていますが、曲輪内部は雑然としており、東側に浅い堀1、西寄りにも浅くて堀なんだかどうなんだか判別が難しい堀2があります。その他は多少の切岸加工がしてある程度で削平も甘く、ほとんど自然地形です。U曲輪に到っては完全に自然地形ですが、やはり西側には大きな土塁があり、浅い堀4、そして谷戸の斜面を横堀状に加工した堀5があります。このあたりまでは少なくとも西側尾根筋に対してはかなり厳重な防御施設を持っていますが、そこから西には小規模な堀切6、7がある程度で、それ以外はほぼ自然地形です。堀切7の西側はダラダラと御前山山頂に向かいますが、山頂付近を含めて城郭遺構はありません。しかし堀切7までを城域とすると、東西は400mほどにも及び、それなりに大きな城郭ということになります。

これらの遺構のあり方から見て、おそらく最初に臨時で取り立てられた城郭のうち、T、U曲輪の西側だけを改修して強化しているように見えます。前述の伝承と合わせて考えれば、南北朝期に瓜連城陥落後に臨時に取り立てられた要害を、部垂の乱にあたった改修して再度利用した、というようにも考えられるのではないかと思います。まあこのあたりは全くの推測の域を出ないので、もしかしたら弓削道鏡が終の棲家として堀を穿ち土塁を積んでいたのかも知れませんが・・・・(んなわけないって!)。

[2006.10.29]

「常陸の嵐山」と賞される風光明媚な御前山城周辺の風景。お城はこの山の先端部にあります。 こちらは北西の那珂川対岸から。美しい景色の続く那珂川流域の中でも、このあたりの景色の美しさは格別です。
那珂川大橋の南西にある登山口。「頂上まで561m」とか、妙に細かく書かれています。 七曲の急坂を登りきると、物見にでもなっていたであろう腰曲輪があり、あづまやが建っています。
なんとなくダラダラっと主郭に入ります。ハイキングコース以外はほとんど山林というかヤブです。 主郭東の堀切1。深さ2mほどの小規模なものです。曲輪内の北側には謎の穴ボコ状の地形もあります。この東側も曲輪には違いないんでしょうが、縄張りは雑然としています。
堀1をまたぐ土橋。パーツの一つ一つは小さいながらも案外しっかり作られています。 T曲輪西南端の虎口土塁。土塁は西側と南側にあり、曲輪内からの高さ2m、山の上とは思えぬほど重厚なものです。
T曲輪虎口の先は土橋となります。その中間の狭い空間は枡形としても機能したでしょう。 TとUの間を分断する堀切3。堀としてはこのお城で最も大きい。しかも土橋のような、あるいは畝堀のような仕切りが一つあるのが不思議。
一応U曲輪としましたが、内部はほぼ自然地形のままです。このお城は曲輪の削平にはほとんど労力を使っていない感じで、そこら辺が臨時築城っぽく感じるところです。 U曲輪西の土塁もまた重厚。ここまでが後に回収された部分ではないかと想像します。尾根の遮断のみを考慮した、臨時築城という感がますます強くなります。
U曲輪西側の堀4。北側は谷戸に沿って横堀状になっています。 U曲輪西側の虎口を横から。土橋があるのがわかるでしょうか。土塁は重厚で威圧感があります。
U曲輪より西側は山道がダラダラ続くだけで、ほとんど自然地形のままです。 しかし、その尾根にも二つの堀切があります。写真は堀切6、深さ2mにも満たぬほどの小規模なものです。
南側に突き出た鐘撞堂跡。眺望は木々に遮られてさほどでもありませんでした。 これが城域の西端と思われる堀切7。尾根上に小規模な土塁もあります。
T曲輪南側には帯曲輪や腰曲輪があり、一部は低い土塁が盛られて横堀状になっています。 腰曲輪の下には堀切8が。ただ規模はとても小さいものです。

 

 

交通アクセス

常磐自動車道「那珂」IC車30分。

JR水郡線「常陸大宮」駅よりバスまたはタクシー。

周辺地情報

那珂川対岸の野口城は比較的よく遺構が残ります。その他、長倉城那賀城などもどうぞ。

関連サイト

 

 
参考文献

「桂村史」

「御前山郷土誌」

「茨城の古城」(関谷亀寿/筑波書林)
「図説 茨城の城郭」(茨城城郭研究会/国書刊行会)

参考サイト

余湖くんのホームページ

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