額田城の考察

額田城は久慈川下流の蛇行部右岸、比高15mほど、東西3km、南北1kmほどの広大かつ平坦な独立台地の南側に築かれている。南側の台地下は現在は水田となっているが、かつては有ヶ池と呼ばれた低湿地が広がっていた。この低湿地はおそらく久慈川の蛇行によって形成された自然堤防が、谷戸の出口を塞いでしまったために形成されたものであろう。台地の北側には久慈川が接しているにも関わらず、あえて久慈川に面せず、逆方向の湿地に向かって築城しているのである。

額田城平面図(左)。鳥瞰図(右) 

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この地方の地形の特徴として、台地が比較的低いこと、台地自体が広大なこと、台地の先端が緩やかに下がっていることなどが挙げられる。たとえば似たように見える下総台地の場合、台地自体は広大でも城郭が築かれる部分は狭い舌状台地で、両側に深く谷津が切れ込み、その周囲は急峻な崖である場合が多い。そのため舌状台地を空堀で区画する程度の工事量で済む場合が多いのだが、少なくとも額田城の場合はこうした地形的アドバンテージが少なく、その分大規模な工事量と縄張りで補っている感が強い。

額田城の主郭であるT曲輪は、特に突出しているわけでも標高が高いわけでもないが、東西に自然の谷津が切れ込み、南側は有ヶ池に面した要害の地である。この主郭だけでも100m×130mほどあるので、額田城全体の規模がいかに大きいか分かるだろう。主郭の周囲は幅15〜20m、深さ8〜10mほどの大規模な堀が廻っているが、この堀底からは湧水があり、堀全体が泥田堀と化している。主郭の南側は有ヶ池に向かって緩やかな傾斜地になっているが、ここに湧水を引き込んだ泥田堀と堀の外側にも土塁を設け、南側には捨曲輪的な平場を置いている。この城の弱点である地形的制約に対処したものであろう。主郭の虎口は現状でははっきりわからないが、横矢のかかった主郭北側の土塁附近にでも橋が架かっていたのではないだろうか。現状のルートも考えられるが、ここに虎口を設けた場合南側の防衛線が突破されると即虎口に取り付かれてしまう弱点がある。

主郭の西側は幅50mほどの自然の谷津が深く切れ込んでおり、湧水が音を立てて流れている。谷津の中は一見乾いているように見えるが、至るところで歩行困難なほどの湿地である。現状でははっきりとは分からないが、谷津の中ほどに段差があり、ここに堰を設けて水を溜めていたかもしれない。また主郭周囲の堀から谷津に向けて、水門のような遺構がある。堀内部の水位を調整していたものではないかと思われる。

この主郭の北側を半周するようにU曲輪がある。現状は広大な畑である。虎口は二箇所認められ、いずれも改変されたものであるが、位置的にはほぼ旧状どおりのはずである。東の虎口は南から北に向かって伸びる谷津の狭窄部に設けられ、その先は堀3と繋がる。北の虎口附近は大きな横矢がかかっており、櫓台が聳える。U曲輪は北側を中心に土塁が点在しているが、これはかつては南側の主郭側以外の三方を囲っていたものである。ところどころ畑の中に高い場所があるのは、土塁を崩した土を畑に転用したものだろう。

さらに北側には広大なV曲輪がある。現状は畑と宅地であるが、周囲の堀や土塁は概ね残っている。このV曲輪から南に堀4を隔てて台地が延びており、主郭よりも突出している。ここがW曲輪で、主郭の西側を守る重要な位置にあっただろうと思う。ここの外周の堀・土塁は断片的にしか残っていないが、阿弥陀寺周囲やその南側に痕跡が明瞭である。

ここまでがいわゆる「城」とすれば、その外側の遺構は一種の「惣構え」として捉えることが出来る。現状残存しているのは、額田小学校の北東の堀(長さ100mほど)、その東南の堀(長さ20mほど)、「横宿」附近の南北に伸びる堀(長さ30mほど)、及び引接寺脇の堀(長さ50mほど、鉤折れあり)くらいであるが、その他にも民家の庭先などにボサ藪が点在していたり、畑が鉤型に曲がっていたりする部分が認められるので、痕跡を含めればもう少し残存遺構は多いかもしれない。

これらの痕跡を繋ぐと、広大な範囲で田切り状に区画されていたことは伺える。遺構の残存状態が良くないため断言はできないが、これらはあまり横矢も多用せず、堀と堀との接合も単純に直交していたようである。規模自体も、本城内のものに比べたらかなり小さいものであったようだ。額田小学校裏手や引接寺附近の遺構から判断すると、幅5m、深さ2.5m前後の空堀だったかと思われる。

額田城主の領地を考えると、これらの広大な外郭部がすべて家臣団屋敷のものであるとは考えられず、やはり城下集落を取り込んだ一種の惣構えに近いものだろう。城下とは書いたが、厳密に言えば台地と城の標高レベルはほぼ同一であり、「城の下」には集落はない。これも地形の制約によるものであろうが、こうした地形から、台地続きを襲撃された場合に少人数でも効果的な防衛ができるよう、多重的な防衛線を構成することが目的であり、必ずしも町屋そのものを守ることが目的であったわけではなさそうである。その点では小田原式の惣構えとは少し異なり、あくまでT〜W曲輪の中核部を防衛するための区画と見たほうがよさそうである。現在でいうところの「防火区画」や「防水区画」などに相当するものと考えられる。逆にいえば、この地形では、多少手間も工数もかかる事を承知の上でも、台地続きの敵に対処するにはこうするしか方法がなかったのだろう。近接する石神城にも広大な外郭があるが、これらも地形的制約を克服するための苦肉の策だったのではないだろうか。


[2005.06.04]

 

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