本拠・太田城を奪還せよ

大門城

(北大門城・南大門城)

おおかどじょう Ookado-Jo

別名:

茨城県常陸太田市下大門町

(北大門城)

(南大門城)

城の種別

平山城・山城複合

築城時期

不明

築城者

不明

主要城主

助川氏・滑川氏・根本氏

遺構

曲輪、土塁、横堀、堀切

南大門城の横堀<<2005年02月13日>>

歴史

城歴は定かではないが、北大門城には小野崎氏系の助川氏、滑川氏が居住し、南大門城には根本石見守が居住したという。「山入一揆の乱」に際して助川通高、滑川式部少輔、根本石見守忠行らははじめ山入氏方であったが、助川通高は佐竹義治に寝返って根本石見守らを攻め、根本氏は一族二十余人とともに討ち死にし、根本氏は滅亡し、南大門城には滑川通本が居住したという。また文明六(1474)年から四年間、佐竹義治を庇護したという。

また延徳二(1490)年、山入義藤・氏義によって太田城を追われた佐竹義舜が文亀二(1492)年、金砂山城で山入氏義の攻撃を撃退し、義舜はその後大門城に移り太田城回復を狙い、永正元(1504)年に太田城を奪回したという。大門城のその後は不明。

大門城に関しては字「堀の内」の谷戸を挟んで北に北大門城、南に南大門城の二つの城域があり、それぞれを別個のものとして捕えることもできますが、尾根続きである上に直線距離でわずか400mほどしか離れておらず、実質的には本城と出城の関係にあるものと見てよいと思われます。ところが驚いたことに、それぞれに別々の城主の存在を伝える話があり、なんと本城と出城で戦闘まで交えているということです。北大門城の城主は小野崎氏系の助川氏、滑川氏、そして南大門城の城主は根本氏、ともにもともと山入一揆に加担して佐竹宗家と敵対していたところ、助川通高が佐竹宗家に寝返り、南大門城の根本石見ら20数名を討ち取った、というもの。ホントにそんなことあるのかいな?しかしこのメンバー、よくよく見ると根本氏、滑川氏はもともと依上保(現在の大子町)の地侍、助川氏はのちの介川海防城で有名になる多賀郡(現在の日立市)の一族と見られ、城主というよりも在番衆だったのかもしれません。そのうち南大門城の在番衆と北大門城の在番衆が対立して・・・なんてこともあったかも??

ここは佐竹氏中興の祖といわれる佐竹義舜が、自身の本来の居城である太田城奪還のための前線としたお城でもあります。延徳二(1490)年、太田城を山入義藤・氏義父子に奪取された義舜は孫根城で足掛け十三年の雌伏の時を過ごし、さらに文亀二(1492)年、佐竹義舜は金砂山城において山入氏義に攻め寄せられ滅亡寸前まで追い込まれます。しかし突如吹いた神風により形勢逆転、山入勢は大損害を蒙り太田城に逃げ帰ります。そこで佐竹義舜はこの大門城に居を移し、じわじわと山入氏を追い詰めて永正元(1504)年、ついに太田城を奪回し山入一揆の叛乱を百年ぶりに鎮定した、というもの。とすれば大門城は「佐竹中興」のための重要なステップアップの拠点だったことになります。しかし優勢に立った義舜がなぜすぐに太田城に駒を進めずに足掛け三年も目と鼻の先の大門城にいたのか、ここで三年間何をやっていたのか、さらには同様の話が佐竹義治の時代にも伝えられ、多少事実関係に疑問もあるところです。

大門城概念図

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一応、それぞれのお城を別々に見てみると、北大門城の方は山入城にも似た純粋な山城で、比高は80mほど、正面に当たる西側に段郭を多数並べ、背後の尾根続きを二条の堀切で区切るといったオーソドックスというか古臭い感じのお城です。この段郭群の真ん中には大手登城口と思われる凹部があるのが特徴です。背後の堀切はなかなか鋭く、それなりに迫力があります。

これに対して南大門城は比高30mほどの小丘陵の先端に位置し、縄張り全体からすると丸っこい単郭の小規模なお城です。しかし曲輪の周囲をグルリと横堀が3/4周しており、土橋も明瞭に認められるなど、小さいながらもこちらもそれなりに見ごたえのあるお城です。おそらく根古屋は中間の谷津「堀の内」にあったことでしょう。地味なお城ですが、佐竹氏発展の過程においては孫根城などとともに縁の下の力持ち的な役割を演じたお城でもあり、歴史がもうちょっとはっきりわかるとより良いのに、とも思います。

[2006.11.07]

北大門城
南大門城の尾根の上から見る北大門城。間の「堀の内」の谷戸を挟んで400mほどの至近距離です。北大門城はオーソドックスな山城という感じのお城です。 登城路は谷戸の奥の方にあります。登城路脇の切岸は結構鋭いものです。
しかし正面の西側はなんとなくダラダラした感じの段郭が続くだけで、いかにも古臭い感じがします。 段郭の間を突き抜けるように虎口と思われる切れ込みがあります。でもお城の規模に比べてやや大きすぎるため、単なる改変かもしれません。
山の上のほうのU曲輪あたりはそれなりに広さがあり、削平状態も良好です。 T曲輪は結構狭いです。ご覧のとおりの山林というかヤブです。
主郭の裏手、堀切に面した土塁。小さな祠が安置されていました。 主郭裏手の堀切1はなかなか鋭く深さもあります。このあたりは西側のダラダラぶりに比べて幾分ピリッとしています。
その堀切1を堀底から。深さは6mほど、山入城の主郭裏手とよく似ています。 さらに尾根続きには深さ4mほどの堀切2があります。この先は単なるダラダラ尾根となります。
南大門城
南大門城は比高30mほどのこんもりした小山。攻略は楽勝と思いきや、道らしい道は無くヤブコギ直登となります。 ヤブを掻き分けて登るとそこにはビックリ、主郭をグルリと取り巻く横堀が。北大門城よりも新しさを感じます。
横堀は主郭側が2mほど、外側は1m程度の浅いものですが、主郭を3/4周しています。 主郭、といってもほぼ単郭なのでコレが城内の全てです。低いながらも土塁に囲まれています。
主郭背後の土塁、といってもせいぜい1.5mくらいしかないのですが・・・。 主郭裏手の土橋。土橋は二箇所あり、尾根続き側には曲輪といっても良い平坦地もあります。

 

 

交通アクセス

常磐自動車道「日立南太田」IC車20分。

JR水郡線「常陸大宮」駅よりバスまたはタクシー。

周辺地情報

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関連サイト

 

 
参考文献

「常陸太田市史」

「茨城の古城」(関谷亀寿/筑波書林)

「佐竹氏関連城館」(常陸太田市史編さん委員会)

「図説 茨城の城郭」(茨城城郭研究会/国書刊行会)

参考サイト

余湖くんのホームページ 北緯36度付近の中世城郭

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