常総の英雄、ここに眠る!?

東林寺城

とうりんじじょう Tourinji-Jo

別名:

茨城県牛久市新地町

城の種別

平山城

築城時期

不明

築城者

岡見氏(?)

主要城主

岡見氏(?)

遺構

土塁、空堀

東林寺城内で出土した五輪塔<<2003年04月13日>>

歴史

築城時期、城主などの詳細は不明。戦国末期には牛久城・足高城の岡見氏の持城であったとされる。

東林寺城牛久城足高城などを拠点とした岡見氏の属城と思われますが、歴史的な詳細はよくわかりません。「日本城郭大系」では「その他の城址」に一行だけ書かれている程度です。この日、一緒に歩いた五郎さんに頂いた「訓馬村裁許絵図」という古絵図には、牛久城・牛久陣屋が大きく描かれていますが、その左隅、方角でいえば西側に、上総坂田城を髣髴とさせる直線連郭式のお城が描かれています。これがこの東林寺城です。

東林寺城の立地は牛久城の台地と平行するように北から南へ牛久沼に突き出した半島状台地にあり、牛久城の台地とは谷津を挟んでわずか500mほどの場所にあります。このことから、牛久城と密接な関係を持った支城であることが推測されますが、単に「支城」というだけでは留まらない規模を有しています。残念ながら台地先端の主郭部は土採りで消滅してしまったため、全体の縄張がどうであったかはわかりません。しかし残った部分や前述の古絵図を見ると、曲輪の広さや堀の規模は非常に大きく、全体的な雰囲気としては上総坂田城と非常によく似ています。特に曲輪の大きさは尋常ではなく、いったい何のために構築されてどう使われたのか、議論の噴出するところであります。「牧と一体化した城郭」「坂田城主・井田氏の築城」「実は近世城郭」などなど、いろんな意見が出ました。坂田城の井田氏は北条氏により、岡見氏救援のために度々牛久在番を命じられており、行き来するのがめんどくさくなった井田氏が築いた(築かせた)、というのがソレガシの想像ですが、もとより何の証拠も無く、雰囲気だけで書いている乱暴な意見のため全くアテになりません(^^;)

ただ、牛久城も外郭まで含めると相当に巨大な城郭であるのに、その牛久城と近接したこの東林寺城をここまで大規模に造らなくてはいけなかった理由がイマイチ理解できません。

前述のとおり主郭部が消失しているため遺構は主に台地基部の堀切、土塁などに限られますが、これは非常に大規模です。土橋は車道になっていますが、当時も土橋だったのか、引き橋だったのかは分かりません。堀には大きな屈曲が付いており、その点でも坂田城の三・四郭堀切を彷彿とさせます。少なくとも個々の遺構も、全体的な縄張りも、岡見氏のお城である牛久城足高城には全然似ていません

足高城の頁で触れた「東国戦記実録」によれば、あの幻の名将・栗林義長がこのお城の直下の東林寺に葬られた、ということらしく、また東林寺の過去帳にも実際にその名が見える、とのことです(見てません)。とすると栗林義長、「幻の名将」などではなくてホントにいたんじゃないか!?そんな気にさせてくれます。まあ「東国〜」の歴史的信憑性を云々しても始まらないので、ここで「東国戦記実録」から「栗林義長病死ノ事」を紐解いてみますと・・・

「さても多賀谷修理大夫重経は岩崎の城へ引き退き味方の勢を数えるに七、八千も不足なり」

#これは天正十五(1587)年六月の多賀谷重経の足高城攻略失敗を指してるものですな。このとき義長が挙げた首級は三千二百余、というが、そりゃナンボなんでも多すぎないかぇ!?

(中略)「栗林下総守義長は思いのままに敵陣を打ち破り大勝利を得て足高の城に入り、岡見父子に見えければ、入道殿始め御悦び斜めならず、千葉攻めの功として諸将士卒に至るまで御加恩御感状等を下されその上御酒肴を下されければ、諸士勇み悦びこの上は岩崎へ押し寄せ多賀谷父子が首を得ん事このときなりと勇々敷きこそ見えにける」

#はあ!?今、多賀谷を破って帰ってきたのに「千葉攻めの功」!?そんなトンチンカンな論功行賞があるかいな。しかもこの頃の岡見サン、多賀谷にジワジワ追い詰められて、「諸将士卒に至るまで御加恩」なんて、とてもとてもそんな余裕ないと思うぜぇ。。。

とまあこんな調子の物語で、この後、義長が病に倒れた後、十三歳の嫡子、亀五郎に、足高城が落城したら落ち伸びよ、と説得する場面では楠木正成の「桜井の別れ」を持ち出したりする実に大げさにしてドラマチックな展開。その亀五郎に六韜三略を渡しながら遺言、「多賀谷佐竹を攻め滅ぼし上洛して父が本懐を達せばこれにましたる忠孝なし」などと云う。「エッ義長のダンナ、上洛することが夢だったんですかぃ!?」などとまたまたツッコミ。こうしてわずか一章を読む間にもツッコミどころ満載の素晴らしいお話が「東国〜」の世界なのですが、この章の最後に重要なる文言が!

「(略)義長今は心置きなく合掌し眠る風情に息絶えける。この事、主君へ上申しければ岡見入道甚だ歎息せしか、しかして有るべき事ならねば寺田佐渡に仰て葬送の式を執り行い荼毘の煙となし一七日追善供養し布施として永楽銭五十貫目文、玄米百俵菩提所に賜られける(中略)盛者必衰会者定離とは云いながら哀れなりける事ともなり岡見代々の寺は常州新治郡高岡村大雄山法雲寺なるが道遠しとて牛久城の北山に送り一宇を立て福壽寺山東林寺と号す」

なんと東林寺は岡見宗治が義長の菩提を弔うため建立したお寺だと!この東林寺、附近で見つかった室町後期の大きな五輪塔があります。もしかしてひょっとして、栗林義長の・・・・!!??

なんともまあ、馬鹿馬鹿しいくらいに広い曲輪。主郭部が削られて消失しているので古絵図を頼りにすると、ここは三郭にあたる曲輪であるようです。 三郭の土塁。写真ではわかりにくいですが、実に壮大な規模の土塁です。
四郭側から三郭の虎口を見る。車道になっているところがもともと土橋だったのか、曳き橋だったのかは不明。でもこの雰囲気、坂田城にスゴイ似てる・・・。 三角と四郭を隔てる堀切は土塁の高さも手伝って、非常に大規模です。この反対側もスゴイのですが、藪もスゴイため写真を撮っても何がなにやらわかりません。
四郭側の土塁上を歩くと、大きな横矢が見えてきました。ここには櫓台があったようで、前述の虎口を側面から狙う位置にあります。 こちらは五郭から四郭への虎口。古絵図によれば枡形などもあるようですが、現状でははっきりわかるほどの遺構はありません。
四郭と五郭を隔てる堀切は前述のものに比べれば浅く、幅も狭い小規模なものです。土塁もありません。 左の堀の東端付近は小規模ながら屈曲し、土橋のように見える部分もあります。
三郭南端から先は土採りで消滅。。。そこから見る牛久沼と牛久城の台地。牛久城とどれほど近接しているかがわかりますね。 こちらは足高城との間に突き出す泊崎の台地。岡見サン、義長殿、ここを多賀谷に取られちゃダメでしょ。。。
お城の東側にある東林寺。ここの過去帳には栗林義長の名前もある、というお話ですが、果たして・・・!? 東林寺城内の耕作地から出土した室町末期のものとみられる五輪塔。解説板には「かなり洗練された作柄」とある。もしかしてひょっとして、岡見宗治が義長を弔ったときの・・・!?
それにしても、空堀に棄てられたこのゴミの山は何なんだ!?名将・栗林義長に代わって、下手人はソレガシが成敗いたす!

 

 

交通アクセス

常磐自動車道「谷田部」ICまたは圏央道「つくば牛久」IC車20分。

JR常磐線「牛久」駅から徒歩60分またはバス(?)。

周辺地情報

近接する牛久城は外せない。興味があれば足高城なども。

関連サイト

 

 
参考文献 「日本城郭大系」(新人物往来社)、「東国戦記実録」(小菅與四郎編/崙書房)

参考サイト

常陸国の城と歴史美浦村お散歩団余湖くんのホームページUshiQネット北総の秘めたる遺跡

 

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