来るなら来てみろ里見水軍

三崎城

みさきじょう Misaki-Jo

別名:北条山城、宝蔵寺城

神奈川県三浦市城山町

 

城の種別

平山城(海城)

築城時期

不明  

築城者

三浦氏

主要城主

三浦氏、横井氏、北条氏

遺構

土塁の一部、堀切の一部

三崎漁港からの遠景<<2002年08月10日>>

歴史

築城時期等の詳細は不明だが、永正十(1513)年の足利政氏書状に「於三崎要害励戦功」とあることから、戦国時代に新井城の支城として三浦氏により築城されたものと見られる。永正十三(1516)年、北条早雲の攻撃により三浦道寸(義同)の立て籠る新井城が陥落し、道寸・義意父子が自刃して三浦氏が滅亡すると、相次いで三崎城も落城し、残った城兵は城ヶ島に立て籠って抵抗したという。

北条氏の支配下では、玉縄城の北条左衛門大夫綱成の配下で「玉縄衆」に組み入れられ、三崎海賊衆を傘下に取り込み、横井越前守らを城代に、船手大将の梶原備前守、出口五郎左衛門尉ら三崎十人衆を配して対岸の里見水軍と対峙した。

弘治二(1556)年十月、里見義堯の嫡男・義弘を総大将として里見水軍の兵船八十艘が城ヶ島に上陸、北条軍は三崎城に清水上野介、梶原備前守、出口五郎左衛門尉らを配置、援軍に金子兵部少輔、富永三郎左衛門、遠山丹波守らが参陣して海戦となった。合戦の帰趨は諸書によってまちまちだが、里見水軍優勢で、三崎城新井城が里見氏に占拠され、三浦四十郷を領有したとされる(三崎・三浦海戦)。

その後は北条氏政の弟、氏規が城主となった。氏規は外交に長け、天正十(1582)年の本能寺の変後は旧武田領の領有をめぐり徳川家康と対立した際に外交交渉を担当、のちの人脈を作った。天正十六(1588)年八月、氏規は関白豊臣秀吉に謁見のために上洛、豊臣氏と北条氏の仲が緊張状態にあっても和平派を貫いたが、北条氏政ら主戦派に押し切られ天正十八(1590)年開戦、氏規は伊豆韮山城に籠城したが、徳川家康の説得で降伏・開城し、小田原城開城のために奔走し、のちに河内に二千石を与えられ近世狭山藩の基礎を作った。三崎城は氏規家老の山中氏が在番していたが降伏開城した。

徳川家康の関東入封後は、天正十(1582)年に滅亡した武田氏の水軍(武田水軍)から徳川氏に仕えた向井水軍の将、向井正綱の屋敷となった。その後、江戸幕府の下では三崎一帯は天領となった。

もともとは三浦半島に土着する海賊衆の拠点の一つだったものが、三浦氏の配下に組み込まれ、三浦氏の滅亡とともに北条水軍の中核を担う役割を負いました。この三崎城、城ヶ島周辺は度々里見水軍の襲来を受けており、弘治二年の三崎・三浦海戦では、一時期この三崎城周辺も里見氏の手に落ちたという見方もあります。こうした里見水軍との直接対決の必要性から、これに先立つ天文年間ごろから北条水軍の再編が始まり、三崎城浦賀城とともに、対里見水軍の主力水軍基地になります。

同じような位置付けにある浦賀城と比べてみると非常によくわかるのですが、浦賀城が真っ直ぐ房総の里見領に相対しているのに対し、この三崎城は海に面した東側に城ヶ島があるため、防御には向いていても物見の能力や出撃力はそれほど高いようには感じません。城ヶ島に挟まれた狭い海峡と湾は水軍の係留地や造船基地としては最適なのでしょうが、有事即応の体制はとりにくいのではないでしょうか。城ヶ島も、自軍の兵力が駐留していれば有効な前衛の砦になり得ますが、逆に敵に城ヶ島を占領された時点でこの三崎城は機能を失います。積極的に攻めに廻る仕事は浦賀城に任せて、鎌倉・小田原方面の防衛基地としての役割を負ったのがこの三崎城ではないかと想像しています。まあこのあたりも新井城と同じく、関東大震災での隆起があったでしょうから地形は多少変わっているとは思いますが、そういう視点で見てみるのも面白いと思いますがいかがでしょう?

三崎城新井城の城代を勤めた横井越後守(神介)は、天文七(1538)年の第一次国府台合戦で小弓公方・足利義明を強弓で射止めた弓の達人でした。その後の三崎城主、伊豆韮山城主を兼ねていた北条氏規は氏康五男、氏政の弟にあたります。秀吉との和平路線を主張しますが兄・氏政はこれを受け入れず、止む無く韮山城に籠城、三ヶ月に及ぶ籠城戦の末、徳川家康の勧告で降伏開城し、その後は小田原城開城のために奔走します。北条氏は「小田原の役」で滅亡しますが、氏規は和平派として動いたことを認められ、河内舟南郡を与えられ、のちの河内狭山藩の基礎を作りました。小さなことですが、早雲公以来の「小田原北条氏」の血脈を守った、という意味では、評価に値する人物だったと思います。
城域の大半は市役所や市の体育館、学校などの施設が建ち並び、表面上明確な遺構は殆どありませんが、出丸であった本瑞寺(ここは頼朝造営の「桜御所跡」でもある)、光念寺周辺、同じく出丸であった福祉会館周辺などは堀や土塁の名残があります。丘陵先端部、現在三浦市慰霊堂が建つ付近は堀切や土橋の名残もあります。主郭は体育館付近だったとのことですが、個人的にはやや疑問を持っています。大手口に近すぎることや、眺望や要害性を考慮すると、前述の慰霊堂周辺、あるいは青少年会館周辺の方が主郭だったのでは?と思います。現在の三崎港は有名なマグロ水揚げ漁港。マリンレジャーの喧騒もなく、静かな港町といった風情でした。

市役所前の屈曲した坂道が大手口。言われてみれば、そう見えなくもありません。 三崎中学校と市民体育館の間に建つ城址碑と解説板。横にあった縄張り図によれば、この位置には馬出しがあったことになっています。現状は変化が激しく説得力は無いですが、中学校周囲の低い土居ももしかしたら土塁の一部でしょうか?
市民体育館が建つ場所が主郭、とのことですが、ちょっと大手口に偏り過ぎている上、眺望や要害性からも疑問に。むしろ二郭・三郭じゃないだろうか? 中学校敷地の東北端付近が搦手口と言われており、「すだれ田」という谷津に向かっていきます。

三浦市慰霊堂参道入り口付近には規模の大きい土塁の残欠が見られます。背後の青少年会館、その先の突端部が主郭ではなかったかと思っています。

慰霊堂の建つ突端部の小郭。出丸とも取れますが、主郭あるいはそれに順ずる重要な郭だった可能性もあるのではないでしょうか。手前には堀切と土橋の名残が見られます。

慰霊堂の突端部からの北条湾(三崎港)と城ヶ島。先端部は崩落していますが、海に直接面した要害性と物見の能力は、単なる出丸と捉えるよりも、かなり重要な郭だったと言う仮説を裏付けるものだと思うのですがいかがでしょう?

市役所前の通り(これも堀切跡)を挟んだ道路の反対側の丘に立つ本瑞寺山門。三崎城の出丸であると同時に、源頼朝が三浦に築いた三御所の一つ、「桜御所」跡でもあります。

本瑞寺山門付近から城ヶ島、城ヶ島大橋を見る。城ヶ島は三崎城の前衛の砦としての役割を持っていたでしょう。この島には城郭遺構はないのかな?

本瑞寺、隣の光念寺は出丸跡。ところどころ土塁の残欠が残っています。

本瑞寺周辺の道路も堀の名残が顕著です。

かつては北条有数の水軍港、今は日本有数のマグロ漁港である北条湾(三崎港)から見上げる城址。静かでいいところです。

本場のマグロを食べていくのも一興。昼時だったし。が、陽のあるうちに少しでも他の城攻めに向かいたい僕はパスしてしまいました。

 

 

交通アクセス

横浜横須賀道路「佐原」IC車30分。東京湾フェリー「久里浜」港より車20分。

京浜急行線「三崎口」駅よりバス?または徒歩70分。

周辺地情報

三浦道寸が壮絶な自刃を遂げた新井城がすぐ近くです。

関連サイト

里見水軍の道を往く」の項もご覧下さい。

 
参考文献 「日本城郭大系」(新人物往来社)、「房総里見水軍の研究」(千野原靖方/崙書房)、「真説戦国北条五代」(学研「戦国群像シリーズ」)、別冊歴史読本「検証 戦国城砦攻防戦」 (新人物往来社)、「後北条氏の海上防備と浦支配」(下山治久・「千葉県の歴史13」/千葉県に収録)、現地解説板

参考サイト

北条五代の部屋

 

埋もれた古城 表紙 上へ