藤田氏流、巨大山城

花園城

はなぞのじょう Hanazono-Jo

別名:

埼玉県大里郡寄居町末野

城の種別

山城

築城時期

不明 

築城者

藤田政行?

主要城主

藤田氏

遺構

曲輪、土塁、空堀、竪堀、堀切、石垣

主郭付近の石塁<<2002年01月20日>>

歴史

猪俣党出身で、猪俣政家の子・政行が現在の藤田郷に住んで藤田と名乗り、その居城を花園城と命名したといわれる。戦国期には藤田氏は関東管領・山内上杉氏に従っていた。

天文六(1537)年、北条氏綱・氏康親子は河越城を攻め、扇谷上杉朝定を追った。天文十四(1545)年九月、関東管領・山内上杉憲政、扇谷上杉朝定と、古河公方・足利晴氏の軍総勢八万が河越城を包囲、城将・北条綱成は氏康の救援を求めた。半年あまりに渡る攻囲の末、天文十五(1546)年四月、氏康、綱成は上杉軍の油断を衝いて奇襲攻撃を敢行、八千の兵で十倍の敵を追うことに成功する。扇谷上杉朝定は戦死、上杉憲政は上州平井城に退去した(河越夜戦)。これにより主家を失った藤田重利は北条氏の軍門に降り、氏康四男・氏邦を養子に迎え、名も「康邦」と改めた。氏邦ははじめ天神山城に入り、永禄三(1560)年以降は鉢形城を整備して「鉢形衆」を編成した。花園城鉢形城の支城として整備されたと思われる。

天正十八(1590)年の小田原の役で、前田利家・上杉景勝・真田真幸らの攻城軍に対し氏邦は鉢形城に籠城、三ヶ月の激戦の末降伏開城した。その際に花園城も同じ運命を辿ったと思われる。

歴史的に不明な点の多い城ですが、この地方を支配した天神山城の藤田氏の属城であり、北条氏邦を養子として迎え、本拠を鉢形城に移してからは、鉢形城の支城になったものと思われます。位置的には鉢形城の対岸正面奥にあたり、川を挟んで対陣しようとする敵に対しては背後を脅かす形になります。一説によると、氏邦に家督を譲った(譲らされた)藤田氏の隠居城だったともいわれます。
肝心の遺構なのですが、まず目に入るのが「やたらと竪堀・堀切が多い」こと。この堀切は山城によく見られるような、痩せ尾根をV字に断ち切った薬研堀ではなく、どちらかというと切り通しに近いもの。そしてそのまま真っ直ぐ竪堀に繋がるパターン。あんまり峻険な山でも細い尾根でもなく、ずんぐりした山に切り込みのように堀切が入っていて、パン屋で売ってる表面に切り込みの入ったクリームパンを想像すると当たらずと言えども遠からずです。
また、主郭を中心に南側の緩斜面には、折歪みを伴った横堀も見られます。平山城ならともかく、山城に横堀というのは比較的少ないパターンだと思いますが、この城では主要な曲輪には横堀がセットになって、防御の弱い南面を補っています。石垣も見所のひとつですが、いわゆる戦国末期〜近世の高石垣とは違って、あくまで土塁の補強的な使われ方でした。鉢形城の土塁石垣とかに近いイメージです。その石垣も見た感じでは崩落が激しくて、事前に入手した資料に写っていたような良好な状態のものは見当たりませんでした。自然の侵食で崩れたか、落ち葉に隠されていたのかも知れません。とにかく石垣は期待したほどの規模も技巧もありませんでした。
しっかし、冬にもかかわらず凄い藪でした。藤田氏の菩提寺である善導寺の墓地付近に登山道らしきものがあって、そこからアプローチしましたが、もともと三郭の下あたりの竪堀に出るはずが、全然違う尾根の上に出ちゃうし、途中から藪で道だかなんだかわからなくなるし、おまけにやたらと堀や曲輪が多いのが逆に災いして、自分の位置を見失うありさま。とくに下山時に完全に藪の中で道を見失い、強引に藪を突っ切ってあちこち傷だらけになりながら生還。さほど急峻な山でもなく、いざとなったら斜面をずり落ちてでも戻れるという読みはあったものの、もうちょっとマシな道があってもいいんじゃないか、と思ってしまう。それなりに規模の大きな山城だし、寄居町だって看板でデカデカと「名水と歴史のまち」を詠っているんだから、思い切って史跡指定して登山道くらいは確保できないもんでしょうか。是非前向きにご検討ください。
尾根筋の一番東側の竪堀と腰曲輪。このような竪堀兼堀切が計五箇所ありました。ただ藪化していて、せっかくの横矢やそれに伴う虎口などが不明瞭なのは残念。 主郭と二郭の間の堀切は規模が大きく、岩盤を掘削した切通し状。この堀は南側斜面で屈曲し、横堀となっています。
二郭から主郭への堀切そばにある虎口らしき石塁。ここから曳き橋が架かっていたのでしょうか。 主郭周囲には断片的ながら石塁があります。足もとにも石が転がっているので、おそらく大分崩落しちゃってるんでしょう。

細長い主郭はなぜか下草が刈ってあり、立派な城址碑も建つ。こんな碑なんかより、ここに来るまでの道を何とかして欲しいです。

主郭西側から屈曲を伴って南側斜面を取り囲む横堀。山城とはいっても尾根が広く斜面も緩いので、その弱点を補うものでしょう。

藤田氏の菩提寺である善導寺。しかし、藤田康邦、北条氏邦らの墓はここではなく、近くの正龍寺にあります。

正龍寺山門と花園城。この山門は寺には珍しい高麗門なので、もしかしたら花園城あるいは近世の陣屋、武家屋敷等の移築門かも?

正龍寺の北条氏邦とその妻御福御前の墓。

その隣は舅の藤田康邦夫妻の墓。

花園城遠景。北側斜面以外は「急峻な」という地形ではなく、むしろ緩やかな斜面が続きます。城域や遺構の規模は大きいので、藪さえなんとかなれば見所は結構あるんですけどね・・・。

山麓でみつけた水堀跡?正龍寺と善導寺の間付近はいかにも根古屋風な地形で、堀っぽい地形も随所に見られます。緩やかな南側斜面の防御の一つとして、水堀か泥田堀などがあったのかも。

ほんとはもっと竪堀や虎口の写真も載せたいのですが、いかんせん藪が邪魔で何がなんだかわからない。石塁ももっとあるはずなのだが、崩落したのか、落ち葉に埋もれたのか、ほんの一部しか見られませんでした。ところどころ、スネ付近まで埋まるほどの落ち葉と腐土層があり、ちょっとは整備しないとほんとに「埋もれた古城」になっちゃうんじゃないか?不覚にも最後は遭難寸前で藪こぎしながら強引に直降して、顔中ひっかき傷だらけになってしまった。

 

 

交通アクセス

関越自動車道「花園IC」より車20分。

周辺地情報

やはりメインは鉢形城でしょう。まだ行っていないが天神山城や、秩父方面の山城も良さそうです。

関連サイト

 

 

参考文献 「日本城郭大系」(新人物往来社)、「中世の城館跡」(埼玉県立歴史資料館)

参考サイト

北武蔵城郭フォーラム

 

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