近世まで続いた那須一族の城

佐久山城

さくやまじょう Sakuyama-Jo

別名:佐久山陣屋

栃木県大田原市佐久山

城の種別

平山城

築城時期

不明(鎌倉初期?)

築城者

佐久山二郎泰隆(?)

主要城主

佐久山氏、福原氏

遺構

曲輪、土塁、横堀、堀切

陣屋の置かれた二の曲輪<<2005年01月30日>>

歴史

築城時期は明らかではないが、那須与一宗隆の二兄・泰隆が佐久山の地を分知され、佐久山氏を称して館を営んだのが始まりだったという。

その後佐久山城は代々佐久山氏の居城となったが、永禄六(1563)年、同族の福原資孝に攻められ、佐久山城を棄てて逃れ、のちに入野氏を名乗った。佐久山城は一旦廃城となったが、元禄十五(1702)年、福原資倍が修復を加え、以後福原氏の佐久山陣屋として維新まで存続した。

佐久山氏は、那須与一宗隆に分知された十人の兄、いわゆる那須十氏の二番目である、次郎泰隆がその祖です。以後代々那須氏の譜代家臣となるのですが、これがどうしたわけか、永禄六(1563)年に同族の福原氏によってこの佐久山城を追い出されてしまいます。単純な領界争いかというとどうもそうでもなさそうで、これには那須氏と大田原・大関氏との対立が絡んでいそうです。というのは、このときの福原氏の当主・資孝は実は大田原城主・大田原資清の次男であり、兄は資清の長男である大関高増。大田原資清はかつて大関宗増や福原資安によって失脚、流浪の日々を送ったりもしていたのですが、やがて力を蓄えて逆襲、大関宗増・増次父子を攻めて増次は自刃、宗増は降伏し、家督を資清の長男・高増に譲ることで和睦します。このとき資清は福原資安も討つつもりだったのですが、金剛寿院の僧の仲介で、こちらは次男を送り込むことで同意します。事実上、大関・福原両家の乗っ取りです。

で、那須資胤とこの大田原・大関シンジケートの関係が悪化するのが永禄三(1560)年、芦名・白河結城連合軍と戦った小田倉の合戦。このとき那須資胤は苦戦し、自らも負傷するのですが、苦戦したのは大関高増らが敵に通じてサボタージュしたからではないか、という疑念から、両者の関係が悪化したということです。資胤も、大田原資清や大関高増のエグさに警戒していたのではないでしょうか。

で、永禄六(1563)年から四年間ほど、この両者は対立し、佐竹氏なども介入して烏山城あたりでドンパチやらかすのですが、佐久山一族が福原氏に追い出された、ということを考えると、時期的にちょうどこの争いに巻き込まれたのではないか、と考えています。おそらく佐久山氏は那須惣領家側に着いていたのでしょう。ちなみに逃れた佐久山氏は入野氏を名乗り、入江野城を築いたということですが、どうしたわけか天正十四(1586)年に那須資晴のために滅ぼされてしまった、ということです。

まんまと所領を増やした福原氏は、「小田原の役」に際して煮え切らない態度の那須資晴をとっとと見限り、大関高増や大田原晴清らの一族とともに小田原に参陣、これによって那須氏改易の後も、独立領主としての地位が保証されます。この後、福原資保は佐久山氏の佐久山城に移り、近世に至ってもその子孫が綿々と続き、ついには維新まで続きます。この間、佐久山氏の中世城館であった佐久山城の一角に陣屋が設けられ、佐久山陣屋とか御殿山とかと呼ばれていました。しかし、さすがは大田原資清の子孫たち、鋭い処世感覚を持っているではないですか。

佐久山城平面図

※クリックすると拡大します。

現在佐久山城は小ざっぱりした公園となっていますが、多少改変もあったようで、必ずしも旧状通りというわけではなさそうです。近世に陣屋が置かれたのはかつての二の曲輪にあたる場所で、西側に異様に大きな土塁があります。主郭はその一段上のボタン・バラ園になっているあたりですが、ここはあまり人影も無くちょっと寂しい感じがします。ここの尾根続きにも巨大な土塁と堀切(堀切1)があり、多少ヤブになっていますが見逃さないようにしたいところです。しっかり横矢もかかっています。この尾根続きも調べてみましたが、途中に浄水施設があるほかは何も無く、基本的にこの堀切一本のみで尾根続きから分断されていたようです。面白いのは東に伸びる尾根の横堀(堀5)で、なんでこんな場所に延々と堀があるのか、多少不思議ではあります。

まあ若干公園化による改変はあるのでしょうが、概ねよく遺構を残している方ではあるでしょう。ヤブコギも殆ど必要ないし、こんなお城もいいもんだよなあ。

[2005.03.13]

佐久山小学校裏の山の端が佐久山城。大して高いわけでも目立つわけでもなく、公園にでもなっていなかったら場所を探すのに一苦労しそうです。 公園内に建つ史跡標柱。この山は「御殿山」と呼ばれています。
U曲輪の塁壁ですが、かなりいじられており、虎口の位置などは特定できません。 広々としたU曲輪。近世に陣屋が置かれていたのはここでしょう。写真の奥に巨大な土塁が見えるでしょうか。
これがその巨大土塁。曲輪面からでも4mくらいはあるでしょうか。西側のみに土塁がありますが、もともとこうだったのかどうかは分かりません。 土塁上を歩くと、不規則にカクカク曲がっています、横矢というわけでもなさそうだし、何なんでしょうか。
巨大土塁の先端に建つ展望台からの眺め。絶景、というほどではないですが、大田原市の中心街方面への眺望が利きます。 土塁の外側に位置する横堀3。先端では竪堀に繋がっていて、ここだけ見ると福原要害城にちょっと似ているような。
堀底状の通路になっている堀2。この先が曲輪だったのか、もともと横堀だったのかはなんともいえませんが、横堀だったと考える方が那須スタイルのお城には合っているような気がします。 公園内の最高所であるT曲輪。U曲輪に比べて人もおらずちょっとうら寂しい場所です。
T曲輪背後の巨大土塁。木々に隠れていますが、高さは4mほどもあるでしょうか。この後には大きな堀切が屈曲を伴っています。 これがその堀切1。深いところで10mくらいはあるか。ここは公園としての整備はされていないため、ヤブと倒木に覆われています。
堀切1の西端。堀切は大きく横矢を描いて屈曲し、台地下へと伸びています。台地の下では水が溜まって湿地のようになっていました。 主郭の東を断ち切る堀切4。
公園内の道路で改変されているものの、本来は堀切4と一体化していると思われる竪堀。 これがよくわからない、不思議な遺構である横堀5。城下町と逆の方になぜこんな横堀が。あるいは背後の谷戸からの敵襲に備えたのでしょうか。
一応出丸と考えたX曲輪、しかし周囲はあまり切岸処理もされておらず、実質的には城外といってもいいかも。 池や小川が造られている谷戸をV曲輪としましたが、ここも城内なのかどうか、イマイチよくわからない。

 

 

交通アクセス

東北自動車道「矢板」IC車15分。

公共交通は不明。JR東北本線「矢板」駅あたりから足があるか。

周辺地情報

大田原市内の大田原城が公園化されています。ヤブコギもいとわない人は福原要害城へ。

関連サイト

 

 

参考文献

「那須の戦国時代」(北那須郷土史研究会 編)

「栃木の城」(下野新聞社)

「日本城郭大系」(新人物往来社)

参考サイト

余湖くんのホームページ日本を歩きつくそう!

 

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