そして永遠に埋没した

葛西城

かさいじょう Kasai-Jo

別名:なし

東京都葛飾区青戸

(葛西城址公園)

城の種別 平城(水城)

築城時期

不明

築城者

葛西氏?

主要城主

葛西氏、大石氏、太田氏 

遺構

なし

葛西城跡の解説板<<2001年09月24日>>

歴史

築城者と築城時期は不明だが、秩父平氏の一族、葛西氏の城館といわれる。戦国期は関東管領上杉氏の属城として大石氏が勢力を持っていたとされる。康正二(1456)年の千葉氏の内紛では、大石石見守が千葉実胤をこの葛西城で保護した。

大永五(1525)年三月、小田原城の北条氏綱により攻略され、一時期扇谷上杉朝定軍に奪回されるが、天文七(1538)年二月に再度攻略、北条氏の下総方面への進出拠点の一つとなった。

天文七(1538)年九月、房総地方に勢を張る小弓公方・足利義明が房総諸氏を従えて関宿城攻略のため進発、太日川(江戸川、当時の利根川)沿いに北上し、下総国府台城に陣取った。事態を重く見た北条氏綱・氏康父子は十月六日江戸城を進発、葛西城には入らずに偽の旌旗を挙げさせて、北方の「猿俣」を抜けて松戸の渡しを渡河、松戸城に入った。翌七日、北条・小弓軍は国府台から相模台城周辺で激戦となり、足利義明は討ち死にし、小弓公方は滅亡した(第一次国府台合戦)。

永禄年間の初期には一時、里見氏に属する網代大炊充らが在城していたが、北条氏康の命で太田康資配下の本田氏らが葛西城を攻撃、永禄五(1562)年四月二十日に攻略した。しかし永禄六(1563)年、葛西城の守備にあたっていた太田康資が寝返りにより里見・岩槻太田側に走ったため、北条氏康が攻めて攻略、国府台に陣取る反北条軍と対峙し、永禄七(1564)年正月、天文七年以来ふたたび国府台で大合戦となり北条方が大勝、下総からの里見氏・太田氏の影響力を排除し、同時に越後から度々関東に出陣していた上杉謙信らを牽制することに成功する(第二次国府台合戦)。

天正十八(1590)年、秀吉の小田原征伐による徳川氏の江戸城入府で廃城。その後は「青戸御殿」が建てられ徳川三代将軍家光の頃まで鷹狩の宿舎として利用されたが、明暦三(1657)年頃、取り壊された。

二回の「国府台合戦」で大きな役割を果たした葛西城。しかし葛西城は北条討伐で落城し、その後葛西城は徳川氏の手により鷹狩等の際の宿所として「青戸御殿」が建てられましたが、明暦三(1657)年頃に取り壊されています。

俄かに脚光を浴びたのは昭和四十七(1972)年の環状七号線の道路建設に伴う発掘で、戦国期の陶磁器、漆器等が発見された頃。後北条氏の下総方面、とくに小弓公方・足利義明と里見氏に対する備えとして整備拡張された葛西城の姿が分かってきました。城地は中川が大きく蛇行する海抜1m前後の超低地で、中川・荒川の水郷を要害にした水城でした。

しかし、結局は環七の下に「埋め戻し保存」、要するに埋没してしまいます。この城がふたたび地上に姿をあらわすことは、永遠にないでしょう。解説板の締めくくりに「東京低地の歴史を研究する上で欠くことのできない文化遺産である」とあるのが虚しく響きます。

葛西城址公園。幹線道路沿いの何の変哲も無い、小さな公園です。ここが本丸跡の一部。 葛西城址公園の西側、環状7号線向かいの御殿山公園。御殿山、といっても山はどこにもなし。「青砥藤綱城跡」の石碑と解説板が建っています。

都内の大動脈のひとつ、環状七号線。環七の工事で発掘され注目された葛西城は、永遠に環七の下に・・・。 葛西城の最大の天然の要害、中川。葛西城は中川蛇行部の水郷地帯に浮かぶ水城でした。

 

交通アクセス

環七、青砥七丁目交差点付近。

周辺地情報

都内なら江戸城、千葉方面なら葛西城と縁の深い国府台城ですね。

関連サイト

 

 
参考文献 「国府台合戦を点検する」(千野原靖方/崙書房)、「新編房総戦国史」(千野原靖方/崙書房)、「日本城郭大系」(新人物往来社)、「真説戦国北条五代」(学研「戦国群像シリーズ」)、現地解説板

参考サイト

房総の城郭

 

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