関東の名門・吉良氏の「世田谷御所」

世田谷城

せたがやじょう Setagaya-Jo

別名:

 

東京都世田谷区豪徳寺

(世田谷城址公園〜豪徳寺周辺)

城の種別

平城

築城時期

南北朝時代 

築城者

吉良治家

主要城主

吉良氏

遺構

土塁、空堀

世田谷城址公園に残る土塁と空堀<<2002年03月25日>>

歴史

南北朝期の中盤に、足利氏の同族である吉良氏が築城したと言われる。吉良氏は足利氏と祖を同じくし、本家筋で足利氏出身の三河吉良氏の後裔で上野国飽間郷を領していたが、吉良治家が貞治五(1366)年に鎌倉公方・足利基氏より武蔵国荏原郡世田谷を拝領してこの地に居住するようになったという。

治家の子・成高は太田道灌とも誼を通じ、長尾景春の乱に呼応した豊嶋氏の蜂起に対抗して道灌とともに戦い、江戸城を防衛している。成高は道灌から「吉良殿様」と呼ばれた。

成高の子・頼康の代には、北条氏の武蔵への侵出が本格化し、北条氏綱の娘(氏康の妹・高源院)を娶った。頼康は実子に恵まれず、駿河今川氏の一族。堀越貞延の次子を養子に迎え、氏朝と名乗った。氏朝は永禄五(1562)年、北条氏康の娘を娶った。北条氏は吉良氏を縁戚に置くことによって権威を高め、吉良氏を蒔田城へと移し、世田谷城は北条氏直轄となった。

天正十八(1590)年の小田原の役では、世田谷城は攻略され、吉良氏は闘わずに逃亡、世田谷城も廃城となった。吉良氏は秀吉により領地を没収されたが、江戸期には高家として「蒔田氏」を名乗り上総1125石の旗本となった。

都内の一等住宅地・世田谷を南北に走るローカル路線、東急世田谷線。路面電車ではありませんが、「チンチン電車」の面影を色濃く残す、のどかな路線です。この世田谷線沿いの閑静な住宅地、豪徳寺周辺はその昔、名族・吉良氏の居城「世田谷城」であったことを知る人は、豪徳寺周辺の方でも少ないではないでしょうか?「上町」駅で降りて、豪徳寺方面へ北上すると、こんもりと木が覆い茂る「世田谷城址公園」という小さな公園が見えてきます。ここが、ほとんど唯一の世田谷城の名残です。ちなみに、この上町駅から世田谷城址公園前までの通りを「城山通り」といいます。こんな世田谷あたりでも、「城山」なんていう呼び方があるんですね。で、その世田谷城址公園には、空堀と土塁の痕跡がわずかに残っています。公園化に伴い、崩落防止用の石垣で囲まれているため、あたかも石垣の城であったように誤解されるかも知れませんが、あくまでも掻き揚げ土塁の城です。ここに吉良氏が居住した時代には、現在の豪徳寺、世田谷八幡宮付近までを含む、それなりに大きな城でありました。この吉良氏は、あの「忠臣蔵」で有名は吉良上野介と祖を同じくする名門の家系で、足利氏ともごく近い血統にあたり、本家筋の三河吉良氏は「足利幕府に世継ぎなくば吉良氏より」と言われるほどの名門。関東に下向した武蔵吉良氏も、関東公方に仕え、関東管領上杉氏に次ぐ、関東第三の名門でした。太田道灌からは「吉良殿様」と言われ、また関東近辺の大名としては異例の「従四位下」という高い官位(これは征夷大将軍にも任官されうる官位)を誇り、「世田谷御所」と通称されました。しかし例によって北条氏の傘下に入り、北条氏の娘を娶るなど、婚姻政策のターゲットにもされた挙句、小田原の役では闘わずして開城逃亡し城は廃城となりました。城の木材、石材は家康によって江戸城の改修に充てられたと言われています。このまま断絶してもおかしくないのですが、家康という人は名門の血統に弱いところがあり、本家の吉良氏が例の「赤穂浪士討ち入り」で改易になったあとは、高家として幕府に仕えています。

ここは、遠藤周作氏がかつて暮らした場所に近く、遠藤氏がよく散策していた場所であるとのことです。そしてそこでたまたま「世田谷城」のことを知ったことが、中世城郭に興味を持つキッカケになったとか。それは短編集「埋もれた古城」の中の、「身近な城あと世田谷城」に記されています。別にお城マニア向けの本ではありませんが、氏の人柄を感じさせる名短編集なので、現在廃刊ではありますが、古本屋等で見かけたらぜひ手にとってみることをオススメします。このサイトの名前も氏のこの短編集から頂いています。

さて前述のとおり、本来であれば豪徳寺一帯を城域に持つ、壮大な城であったわけですが、今ではこの公園付近でしかその名残を味わうことはできません。しかし!実はこの公園から豪徳寺境内までのおよそ100mの間には、土塁と空堀がしっかり残っているではないか!しかも、周囲を宅地に囲まれながらも、高さのある土塁、櫓台と深い空堀、それも二重の堀がしっかり残っています。場所は、集合住宅「豪徳寺住宅」の団地の東側。団地の敷地内なので見学は迷惑にならないように要注意、ですが、この場所だけなぜか手つかずで残っていてくれているのには狂喜です。「子供が落ちると危ないから埋めちゃえ」なんてなる前に、きちんと手を打って、しっかり保存すべきでしょう!たのむぜ世田谷区&石原慎太郎(都知事)。

いきなり城と関係ない写真を出してしまった(笑)。これが都内でも乗ったことのある率が非常に低い世田谷線の電車。こんなオモチャみたいなのが走ってる。数年前まではもっとレトロな電車もあったんですが、無くなっちゃったんですかね?これに乗るだけでも、ちょっとした遠足気分で楽しいと思いますよ(^^)。

世田谷城址公園は小さな公園ですが、二重の堀と土塁はそこそこ見所があります。城内主要部は豪徳寺境内周辺なので、このあたりは外曲輪とか出城とかにあたるのでしょうか?

土塁の上にあった「御所桜」。しかし何の説明もないので、これがどういう桜なのかはよくわからんです。 超広い敷地を誇る豪徳寺の山門。江戸期には井伊氏の菩提寺で、「安政の大獄」「桜田門外の変」で有名な井伊直弼の墓所もあります。お散歩コースに最適です。このあたりが世田谷城の主要部か。

まあ遺構なんてこんなモンだよな〜なんて半ば諦め、半ば納得して帰る途中に空き地の向こうにでかい土塁発見!これは何とか近づいて見ねばなまい! その場所は「豪徳寺住宅」という団地の庭先でした。住宅地なのでちょっと気が引けるのですが、「ささっ」を写真を撮らせてもらいました。見事な空堀です。

住宅裏の堀と土塁は、城址公園から繋がっていますが、公園内よりも手がつけられていない分、遺構をはっきり確認できます。フェンスがあるので近づけないですが、二重堀の様子や、土塁、写真に写る櫓台風の高まりなどが見られます。嬉しい誤算でした。 江戸期初期からの彦根藩井伊氏の世田谷領の代官であった大場氏の代官屋敷門。都の史跡指定も受けています。母屋も残されていて、区の歴史資料館になっていますがこの日は休館日でした。1500点にも及ぶ古文書などが収蔵されているそうです。

今でこそ世田谷区は都内でも有数の一等住宅地ですが、戦後しばらくはブナ林と畑が占めるのどかな場所だったようです。吉良氏の時代も、きっとのどかな景色が見られたことでしょう。遺構はわずかでも、都会の中の身近な一角に、こうした場所があるのは嬉しいですね。願わくば残った遺構はこれ以上壊されぬように早めに手を打って欲しい、ということですね。

 

 

交通アクセス

東急世田谷線「上町」駅徒歩10分

周辺地情報

お寺好きな人は豪徳寺へ。近辺で明瞭な遺構が残るのは奥沢城です。

関連サイト

 

 

参考文献

「日本城郭大系」(新人物往来社)

「戦国関東名将列伝」(島遼伍/随想舎)

「天下取り採点 戦国武将205人」(新人物往来社)

現地解説板

参考サイト

奥州城壁癖

帝國博物学協会 城郭研究部

 

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