戦国期に下総西部を支配した高城氏の本拠で、起伏のある丘陵地に築いた南北600m、東西800mの大城郭だったそうですが、現在残るのは外曲輪の虎口であった金杉口、達磨口付近だけとなっています。この金杉口が現在、所有者の好意で市の歴史公園として公開されています。この歴史公園には、障子堀、畝堀など、非常に貴重な遺構が残ります。わずかな遺構ではありますが、北条系城郭の特徴を感じることが出来るでしょう。土地を寄贈してくれた所有者に拍手、です。
周囲は宅地開発によって殆どが団地、住宅地になっており、この歴史公園とその東側の達磨口以外は城址を感じさせるものはありません。しかし、周囲の起伏にとんだ地形は、難攻不落の攻めにくい城であったであろうことが想像できます。
しかし、千葉県−埼玉県の県境付近の渋滞はホントにひどいですね。松戸市なんて僕の住む市川市の隣なのに、二時間半以上かかってしまって、その殆どが三郷駅前付近の渋滞。その原因は右折信号の無い交差点と橋。橋は仕方ないとしても、右折信号はなんとかなりませんかね。千葉県は右折信号が少なすぎます。。。。
<<追補:2002年07月28日>>
高城氏全盛期の本拠、小金城をもう一度見に行きました。一回目に渋滞で痛い目にあったのは、通るルートを間違えただけみたいです。今回の目的は、全体的な地形を捉えることと、「主郭」にあたる「本城」およびそこに建つ石碑を探すことです。この主郭には現在は市営集合住宅が建ち並び、片隅に「小金大谷口城」の石碑がある、とのことで、これを探してひたすら歩きまわりました。しかし、歩けども歩けどもその場所はわからず、時間が勿体ない、と諦めて車に戻り、Uターンするために頭を突っ込んだ小路の角に石碑を発見しました。普通こういう石碑は公園の隅っことか、それとわかる場所に建てるもんだと思うのですが、この石碑はほんとに小路の隅っこ、ビルの片隅においてありまして、「これじゃわかんないワケだ」と妙に納得。で、その主郭付近は下調べどおり、市営住宅(というか公務員住宅)になっていて、「昔を偲ぶよすがも無い」とはこういうことを言うんだろうな、と思いました。一応、地図にマークしておきましたんでご参考に。位置的には新松戸駅から北側の急な坂道を登りきった交差点をちょっと西に向かったところです。付近の大勝院の敷地も当然ながら小金城の一部で、その北側が前回見学した大谷口歴史公園(金杉口)にあたります。ひとことで言ってしまうと「入り組んだ谷津と丘陵を巧みに利用した大城郭」という、何の変哲も無い言葉に集約されてしまいますが、とにかくデカイということはよくわかります。でかすぎて全体像が掴みづらいのも事実ですが。これで遺構が完全だったら言うことナシなんですが。。。
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| 往年の大城郭、小金城全図。でかすぎて全体像が掴みづらいかもしれません。現在残っているのは緑色で着色された達磨口、金杉口のわずかな部分のみ。あとはすべて宅地化されました。 |
達磨口。一回目の訪問時は中に入らなかったため気付きませんでしたが、中には写真の顕彰碑が建つ櫓台風の土塁と、左下写真の巨大土塁がありました。ここには回転式の木橋があったらしいですが、どこにどのように架かっていたのでしょうか? |
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| 達磨口の大土塁。あまりにでかすぎて土塁だとはなかなか気付きませんでした。 |
大谷口歴史公園入り口に当たる金杉口の枡形虎口。この上には模擬冠木門が架かっています。 |
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| 金杉口の堀障子。復原されたものだそうです。 |
金杉口の曲輪は武者走り状の土塁(というより土居)が取り巻いています。ここは大きく見れば馬出しにあたる空間だったでしょう。 |
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| 当城最大の見所、畝堀。粘土質の地質に畝堀は非常に有効らしい。北条氏の築城技術を採り入れたものでしょう。 |
歴史公園西の谷津にある駐車場付近(馬場付近)の空堀とおぼしき地形。とはいうものの確信は持てません。 |
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| 大勝院周囲の「外馬場」付近のあやしい道。堀底道かもしれませんがこれも確信はなし。 |
さんざん探し回って諦めて帰ろうとした時に偶然見つけた「小金大谷口城址」の石碑。街角の小路にひっそりと。 |
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| 石碑付近が本丸に当たる「本城」ですが、ご覧の通り造成されてしまいました。「昔を偲ぶよすがもない」とはこういうことを言うのでしょう。。。ちなみに場所はココです。 |
JR新松戸駅から北に向かう坂道がこの城の別名にもなっている「大谷口」、右手の丘が「馬場山」、左手が「外番場」「中城」「本城」にあたります。 |
| 都心に程近い西下総の城郭の例に漏れず、城址は宅地化されつくし、残る遺構も断片的で、往年の大城郭を想像するのはなかなか難しい。ただ、この台地周辺を歩いてみれば、その複雑な地形や城域の広さが実感できるでしょう。 |