城の見える風景

現在、私たちが見ることができるお城の姿の多くは山林だったり、田んぼや畑だったり、宅地だったりします。しかし、かつてそこに武士が居住した城館があったことは紛れもない事実であり、同時代で生きた人々にとっては、その目線の先に「お城」があることは日常的な光景であったでしょう。

ここでは、そんな「同時代的」な目線で捉えたお城の姿を、想像力を最大限に発揮して推定再現してみたいと思います。もちろん、建物や集落などの風景は想像に過ぎませんが、縄張り図のような遺構配置の正確性を追及するのではなく、あくまでも「城の見える風景」をイメージしてみたい、と思っています。さてどこまで続くでしょう・・・。

※絵はクリックすると拡大表示します。

[2005.01.10]

 

越後栖吉城

(新潟県長岡市)

最近ちょっと話題になった「戦国の堅城」(学研刊)という本があるが、それ風に描いてみようと思い挑戦したが、なかなか人の作風を真似るというのは難しい。出来上がってみると、いつもの自分の絵である。それはともかく、栖吉城は越後中郡(中越地方)きっての堅城である。謙信の母、虎御前の実家としても知られる。2004年の新潟県中越地震では、城下の栖吉集落も長い間避難勧告が解除されなかった。一日も早い復興を願うばかりである。栖吉城についての詳細は栖吉城の頁をどうぞ。

 

 

越後黒川城

(新潟県胎内市)

我が故郷の山城、黒川城の冬の姿。帰省中、越後独特の鉛色の重い雪雲を見上げながら、ふと「冬の山城の風景というのはどんなだったんだろう」と思い、大晦日に紅白を見ながら描いた。掘立小屋みたいな簡素な建物でも、やっぱり何度か雪下ろしとかやったんだろうなあ。そうしないと倒壊しちゃうからなあ。やっぱり何人かは寒さに震えながらも交代で留守番やってたのかなあ、などと想像が尽きない。黒川城についてはこちらの頁をどうぞ。

 

 

信濃鞍骨城

(長野県長野市・千曲市)

川中島に浮かぶ「天空の城」とでも言うべき鞍骨城に行ってから、いつかこの山城を描いてみたい、と思い、イメージを膨らませ続けてきた。しかし、鞍骨城を描くというのは、言い換えれば高い場所からあの「川中島」を描くということである。下書きを沢山描いてはボツ、を繰り返し、やっと形になったのがこの絵。細かい部分はある程度目をつぶって欲しい。鞍骨城についてはこちらの頁をどうぞ。

 

 

越後犬伏城

(新潟県十日町市)

「ご到着!」「御屋形様、ご到着!」「折り敷け、折り敷け!」上杉軍道の中継点、犬伏城の中腹を縫う上杉軍道や、宿営地の雰囲気を残す犬伏集落を訪れると、こんな声が聞こえてきそうな錯覚がする。まだところどころに残雪が残る春浅き道を、毘沙門軍団は粛々と進み、そしてこの犬伏城で二日目の夜を過ごすのである。犬伏城についてはこちらの頁をどうぞ。

 

   
過去の作品

越後黒川城【着色越後奥山荘黒川要害絵図】

(新潟県胎内市)

ソレガシの生まれ故郷に聳える、黒川氏の居城。河岸段丘上に館城(現在の「下館」集落)を置き、蔵王山塊から延びる尾根上に「前要害」「奥要害」を配置する大規模な山城。遠く色部氏の平林城、本庄氏の本庄城(村上城)も見えている。ちなみにこの絵はこのサイトで始めて掲載した自作の絵である。黒川城についての詳しくは黒川城の頁をどうぞ。

なおこの絵は合併前の黒川村が閉村記念誌として出版した「黒川村のあゆみ」に収録されました。

上総久留里城着色總州久留里軍記繪圖

(千葉県君津市)

「総州久留里軍記」に描かれた、天文二十三年の攻防戦をイメージして描いたもの。小櫃川の蛇行部に陣取って川を渡ろうとする北条氏康の軍を、里見義堯軍が水際で防戦している、というイメージ。詳しくは久留里城の頁および「雨城興廢記」の頁をどうぞ。

 

本庄城【永祿年中本庄城合戰繪圖】

(新潟県村上市)

永禄十二年に勃発した「本庄繁長の乱」で、本庄繁長が立て籠もる本庄城を上杉軍が攻め立て、城下集落に焼き討ちをしている。本庄城は江戸期に近世城郭・村上城に面目を一新したので、中世期の縄張りなどは独自の考察に基づく想像である。詳しくは本庄城の頁をどうぞ。

 

   

埋もれた古城 表紙