父と探した 我が故郷の城

黒川城

くろかわじょう Kurokawa-Jo

別名:なし

新潟県北蒲原郡黒川村下館〜塩谷集落

城の種別

中世山城・居館

築城時期

建治三(1277)年頃

築城者

黒川茂長

主要城主

黒川氏

遺構

曲輪、堀切、土塁

黒川城本丸と黒川集落<<2004年01月01日>>

史跡指定

鎌倉時代初期に、三浦和田氏の一族、和田義茂が奥山荘地頭職に任ぜられ、城氏滅亡後の鳥坂城に入った。建治三(1277)年、和田茂長は祖父時茂より奥山庄北条を分与され、下館に居館を構え、その子兼連は黒川氏と称した。観応二(1351)年、足利尊氏の弟・直義と、尊氏の重臣・高師直父子との争いに始まった観応の擾乱では、黒川茂実は尊氏方の一員として駿河薩捶峠に布陣し軍功を挙げたが、直義方の上杉憲顕は正年七(1352)年、大軍で黒川城を包囲、茂実も奮戦したが落城・降伏した。

応永三十(1424)年、足利幕府将軍の義量と関東公方・持氏の関係が悪化、越後においても室町幕府に与する守護・上杉房朝と関東公方に与する守護代・長尾邦景が対立した。守護方の上杉頼藤は奥州の伊達持宗の援軍を得て、黒川城の黒川基実、鳥坂城の中条氏を始めとした三浦一族に守護代方の山吉行盛の守る三条城攻撃を命じられ参戦したが、長尾邦景から所領安堵を受けている恩義から新発田城の新発田氏らと語らい寝返り、軍を引き返した。これにより上杉頼藤、鳥坂城主の中条房資ら五千に黒川城を攻められ降伏開城した。頼藤は援軍の伊達氏に恩賞として荒河保を与え、伊達氏の一族である滑沢氏が居を構えたが、応永三十(1424)年、基実の油断に乗じて滑沢氏が黒川城に夜襲をかけ焼失、基実は胎内川河畔の並槻河原で戦ったが乱軍の中で自刃した。永正四(1507)年、守護代の長尾為景が守護・上杉房能に叛乱し攻め殺すと、将軍・足利義稙は関東管領・上杉顕定に為景討伐を命じた。黒川氏実は一貫して長尾為景に尽くして従軍した。天文七年、守護上杉定実の養子問題をめぐり、鳥坂城主の中条藤資は自分の妹と伊達稙宗の間に生まれた子・時示丸を養子に送り込むことを画策したが、黒川氏をはじめ色部氏、本庄氏など揚北衆の殆どが反対し、対立した。この中条藤資が、為景の子で守護代の晴景に対抗し、栃尾城の戦いや黒田秀忠討伐で名を馳せた景虎(後の上杉謙信)を守護代職に擁立することを画策すると、黒川清実はこれに対抗して晴景側についた。やがて景虎が晴景の養子として守護代を継ぐと、清実は景虎の配下として川中島や本庄城の本庄繁長の叛乱制圧などに従軍した。天正五(1578)年、謙信の死去により勃発した御館の乱では、中条氏が景勝側に与したのに対抗して三郎景虎側につき、鳥坂城を攻めたが、逆にその間隙を衝いて中条氏の一族の築地資豊に攻められている。慶長三(1598)年の上杉景勝の会津移封により黒川氏も会津に移り、黒川城は廃城となった。現在は国指定史跡。

僕の生まれ育った、黒川村に残る城跡。

山麓の居館跡は現在の下館集落東寄り、「天然記念物 八反榧」のあたりと言われており、その居館跡を分断するように県道が走っています。そうしてみると、僕は毎日、居館跡を自転車で横断して中学に通っていたことになります。居館跡には目立った遺構はありませんが、畑の中にわずかに残る土塁を発見したときには感無量でした。歴史を調べてみると、こんなのどかな田舎の、全国的に全くといっていいほど無名な小城にも関わらず、足利尊氏と直義の争い、室町幕府と関東公方の対立、越後守護と守護代家の対立などの政治向きの話に振り回され、その都度戦乱に巻き込まれていたことを知り、不思議な気持ちになりましたね。僕が中学校に通うためにチャリをこいでいた県道のあたりにも五千もの敵の大軍が布陣していたはずだし、初詣に行っていた大蔵神社だってきっと死闘の舞台になったことでしょう。田舎に帰って、暇つぶしにパチンコ打ちに行っていたあたりで、我が黒川氏の当主であった基実が闘い敗れて自刃していたなんて、いまさらながら申し訳ないような気になってしまいますね。

黒川城の要害部は、戸ノ裏川を堀とした典型的中世山城で、尾根を利用した小規模の曲輪や堀切の跡が認められます。山城は「前要害山」と「奥要害山」に分かれ、尾根続きの蔵王山には蔵王山城があります。おそらく蔵王権現の要害は南北朝のころまでのもので、戦国期には使われていなかったと想像されます。2つの要害山も使われていなかったのでは?とも思いましたが、御館の乱に際しては景勝方の中条氏・築地氏に攻められており、その籠城戦では要害が使われたと想像できます。

中世城郭に興味を持ち始めてから、下館集落の不自然な道の折れや、地名、「大蔵神社」付近の地形から、「大蔵神社近辺が城址に違いない」と思うようになり調査をしたところズバリ正解。しかし、実際に調査に行ってみると居館部は完全に道路や農地・宅地になっており、また要害に行くための道も整備されておらず、わずかに「奥山荘城館遺跡」の標柱があるのみ。なぜか興味を示した父と二人で出かけたのですが、仕方なく、藪の覆い茂る道無き道をよじ登り、尾根筋の急斜面を四ん這いになりながら登って、やっとのことで辿り付きました。一応「国指定史跡」なんだから、きちんとした見学路や解説板の設置を望みます。

 

2002年の年も押し迫った12月30日、世間は師走で大忙しだというのに、里帰りで手持ち無沙汰な僕は、無謀にも積雪の黒川城攻めを敢行しました。その格闘記はこちら

 

2004年正月1日、なぜか越後は積雪ゼロ、穏やかな天気。これはチャンス!とばかり、元日だってことを無視して挑んできました。ほぼ全域をくまなく踏査、その成果はこちらをご覧あれ。なお、黒川城は史跡としての整備計画が進行中だそうです。余計なものは一切建てて欲しくないのですが、見学路や休憩用ベンチ、案内板などが設置されるのは大歓迎です。がんばれ、黒川村!

 

黒川城探訪   黒川城の冬

 

交通アクセス

日本海東北道「中条」ICより車15分

JR中条駅よりバス「下館」から要害まで徒歩60分

なお戸ノ裏川沿いの林道は車では通行困難。

周辺地情報

黒川村は意外や意外、県北随一の観光地なのです。家族でゆっくり温泉に入りたいのならクアハウス胎内、地ビールが味わえる胎内ビール園、大自然を堪能できる胎内渓谷、冬なら胎内スキー場。宿泊も胎内グランドホテル、パークホテルをはじめ村営ホテル(!)もあります。あまりに観光地がありすぎて、逆に黒川城なんてわざわざ来る人、いないみたいです(笑)。詳しくは下記のサイトで!

城巡りは北は平林城村上城、南は金山城、新発田城へ。奥山荘に興味を持ったら、素晴らしい歴史公園として整備された奥山荘歴史の広場(江上館)でまず概容を掴むことをオススメします。

関連サイト

黒川村公式サイト

奥山荘の頁を作りました。こちらもご覧下さい。

 

参考文献

「黒川村誌」

「新潟県中世城館跡等分布調査報告書」(新潟県教育委員会)

「やさしい郷土史 黒川村発展の歩み」(片野徳蔵)

「史跡奥山荘城館遺跡 整備基本構想」)(黒川村教育委員会)

「黒川村文化財マップ」(黒川村教育委員会)

「図説中世の越後」(大家健/野島出版)

「ふるさと散策」(中条町教育委員会)

「村民史跡探訪」(黒川村教育委員会)

奥山荘歴史館配布資料

参考サイト

 

 

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