板額御前、男勝りの奮戦

鳥坂城

とっさかじょう Tossaka-Jo

別名:白鳥城、白鳥要害、鶏冠城

 

新潟県北蒲原郡中条町羽黒

城の種別

中世山城

築城時期

平安末期(治承四・1180年頃)

築城者

城氏

主要城主

城氏、中条氏

遺構

曲輪、堀切、段切

並槻集落付近から見上げる白鳥要害<<2002年05月06日>>

歴史

桓武平氏の一族、城氏が平安末期に奥山荘周辺を支配した。治承四(1180)年に越後守に任じられた城資永によって、鳥坂城が有事の要害として取り立てられた。その頃、源頼朝、木曽義仲らが平氏に対抗して旗揚げしたが(治承の乱)、資永・資職(のち長茂に改名)は平氏方として、木曽義仲、甲斐武田氏、浅利氏、逸見氏らを討つために出陣するが破れ、文治四(1188)年、資職は梶原景時を仲介に自ら囚人として鎌倉に赴き、頼朝に降り、翌年許されて幕臣となった。

建仁元(1201)年、城資盛は平氏復興のため鳥坂城で挙兵、幕府は佐々木盛綱を越後御家人の総大将として追討軍を派遣した。このときに城資盛の叔母、板額御前は大岩を投げ落とし、強弓で敵方を射倒す大奮闘をしたといわれる。資盛は出羽に逃れ、板額は捕らえられ鎌倉に護送された。のちに甲斐源氏の一派、浅利与一のもとに嫁いだといわれる。このときに立て籠った鳥坂城は現在、鳥坂城址として知られる白鳥要害ではなく、鳥坂山頂に築かれていたとの見方もある(古鳥坂城)。

その後幕府は木曽義仲追討の恩賞として、三浦和田氏の和田義茂に奥山荘地頭職を与えた。三浦和田氏は土着して中条氏を名乗り、黒川氏、関沢氏、築地氏、金山氏など多くの庶流を生み出した。とくに中条氏と黒川氏は波月条や金山郷などの周辺の所領をめぐり度々紛争を起こした。鳥坂城は戦国期には中条氏の詰めの城として使われた。天正六(1578)年からの御館の乱では、中条氏は上杉景勝に味方し、上杉三郎景虎を支持する黒川氏に攻撃され落城したともいわれるが、逆に一族の築地氏が黒川城を攻めている。謙信股肱の臣であった中条藤資の養嗣子・景泰は天正十(1582)年、越中魚津城で織田軍に攻められ切腹した。上杉景勝は中条景泰の長子・一黒丸の家督を安堵し、一族の築地資豊に後見を命じた。一黒丸は慶長二(1597)年に元服し三盛と名乗ったが、翌慶長三(1598)年、景勝の会津移封に従って居を移し、鳥坂城は廃城となった。

鳥坂城は、日本一小さな山脈・櫛形山脈の北端、鳥坂山の支峰・白鳥山(298m)に築かれた要害で、戦国期は中条氏の居館、江上館の詰めの城でした。奥山荘城館遺跡群にも指定されています。また、要害地区の南西側山麓には羽黒館、東館などの居館跡もあります。これらは戦国期に三浦和田氏の惣領である中条氏が江上館から移ってからの遺構群ですが、耕地整理などによって全体の縄張りそのものは分かりづらくなってしまいました。とはいえ、山麓に付随する居館としては平林城黒川城などと並んで他の地域に類を見ないほど大規模なものです。これら、揚北地方の「館城」については、いずれ別項を設けて考察してみたいと考えています。

ここは、平安末期から鎌倉初期にかけて、城氏の本拠となったお城であり、城資盛の叔母である板額御前は男勝りの奮戦振り、狙った矢は百発百中だった、とのことです。この越後の巴御前、最後は絡め取られてしまいますが、甲斐の浅利与一の懇願により助命されてその妻となった云々・・・。ただ、板額御前伝説は遠く離れた坂戸城などにもあるそうで、どこまでホントなのかもわかりません。ソレガシはガキの頃から、鳥坂城こそが板額奮戦のお城と言い聞かされてきたし、周辺に残る城氏のものと伝わる古い山城の分布から見ても、城氏の本拠はこの鳥坂城で間違いなかろう、と考えています。ちなみに附近には「飯角(いいずみ)」という集落がありますが、これも正しくは「はんがく」と読むべきものの転訛ではないかと思っています。

要害地区は細い尾根筋を堀切で断ち切った曲輪が連なっており、展望台のある一曲輪でもさほど広くはなく、おそらく建物らしい建物は掘立小屋程度のものしか無かったのではないでしょうか。特徴的なのは段切り状の腰曲輪で、目視で確認できる個所はわずかですが鳥坂城の最大の特徴です。また堀切は北東に行くほど規模も大きくなり、主峰である鳥坂山の山頂方面への守りを固めています。

疑問なのは、現在城域に指定されている「五の堀」よりも東に位置するマイクロウェーブアンテナのある頂や、鳥坂山山頂付近も要害として使われていなかったのかどうか?ということで、地形を見る限り、この2箇所を要害として利用しない手は軍事的観点から見ても無いと思うのですが。私の記憶では、鳥坂山への登山路の一つである、樽ヶ橋方面からの道には、展望台のある平場や、自然の地形にしては不自然な堀切状の地形があったはず(追加調査実施、古鳥坂城参照)で、これも鳥坂城の遺構だとすれば、実は鳥坂城は現在考えられているよりもはるかに広大だった、という可能性もあります。実際に、この鳥坂城や鳥坂山のある櫛形山脈には延長14kmの山脈全体の各主峰、支峰に小規模な城砦が点在しており、一般に鳥坂城といわれている範囲が白鳥要害付近だけでなく、飛躍的に拡がる可能性を持っています。もしそうだとすれば、城氏の大城郭構想や、中条氏と日ごろから仲の悪い黒川氏への備え、とくに御館の乱時に拡張された部分、などという推測が成り立つような気がするのですが。ちなみに白鳥要害から黒川城との直線距離はわずか2kmほどです。

<<追補>>

前述の鳥坂城の城域を調べるため、鳥坂山頂方面へ探索に行ってきました。鳥坂山頂の古城と思われる遺構や、支城(というより城域の一部)と見られる下赤谷城については、追加調査をしましたので、こちらをご覧下さい。また、北側城下の羽黒〜野中周辺の山(ゴルフ練習場・簡易水道施設跡地附近)は通称「猫山」と呼ばれていますが、「根古屋」が訛った地名かもしれません。もしかして家臣団の屋敷跡か?ただ、遺構らしきものは見当たりませんでした。登山道はいくつかありますが、羽黒方面からのの「宮の入コース」、猫山附近からの「追分コース」が安全です。ただ、どっちも山登りは結構しんどいです。。。

南西から見る白鳥要害(左)と鳥坂山頂(中央)。写真手前の20m前後の段丘は堅固な館城である羽黒館です。 羽黒館の裏手の台地上から見る白鳥要害。この手前の山林が東館です。

メインのアプローチルートである宮の入コースの入口。この附近が東館ですが、耕地整理や深いヤブによって全容はまるでわかりません・・・。 これが本城最大の特徴である「段切り」。見て分かりますか?斜面を犬走り状に最大30段も削平しているそうです。殆どの部分は植林されていて、見ても分からないようになってしまっているのが残念。
宮の入コースを歩くこと約30分、三郭、というより大手曲輪にあたる削平地が現れます。 さらに一段高く二郭へ。削平されているのはわかりますが、それ以外の遺構ははっきりしません。

白鳥山頂、標高298mの主郭。「奥山荘城館遺跡」の石碑と簡単な看板があります。畝状阻塞もあるとのことですが、塁壁は笹薮に覆われて全く分かりません。

主郭に建つ展望台。山麓からも目立つのでこの山の目印になるでしょう。

山頂より眺める秋の奥山荘。中条町の市街地中心部近くには初期の居館、江上館があります。春の田植えシーズンには、かつての塩津潟の姿が髣髴とされます。

主郭の北東尾根続きを断ち切る「一の堀」。普通こういうのは主郭の傍が一番大きいものですが、ここでの堀切は実に小規模なものです。 この尾根には堀切が五つ、次々と現われます。「二の堀」は「一の堀」と規模的にはほぼ同じ。

次は「三の堀」。堀切と堀切の間には一応尾根上の曲輪がありますが、削平も甘く、居住性は低いようです。 ちょっと規模が大きい「四の堀」。簡単な解説板も設置されています。

四の堀の北端は岩場となり、自然地形なのか人工的なものなのか、虎口状の岩が堀を狭めています。 左の岩場の下には竪堀が。というより、北麓の「猫山」方面との連絡を取るための間道ではないかと思いました。

自然地形を活用した「五の堀」は「大堀切」という言葉が相応しい大きさ。冬枯れのシーズンには山麓からでもよく見えます。 五の堀附近で出くわした「ヤマドリ」。父によると、絶滅危惧種のひとつだそうで、なかなか近くでお目にかかることは少ないそうです。

「追分コース」の中腹にある岩倉は、城氏の時代の食料庫と考えられているそうです。が、ほんとのところはどうなんでしょう? 追分コースには沢を利用したと見られる竪堀状地形がいくつか見られます。四の堀から連結しているかも?

「猫山」附近は中条町の簡易上水道施設跡地を利用した公園などになっています。地名から考えて「根古屋」があったと推定していますが、地形の改変が甚だしく判断できませんでした。 羽黒集落の「羽黒三社」あたりが羽黒館の中心部です。この羽黒館、改変はあるものの一目見てその堅固な館城ぶりを感じ取ることができます。

羽黒三社の敷地内に点在する土塁。神社建立によるものではないと思います。 羽黒三社裏手の堀切。これは明瞭です。鳥坂城まで来たらぜひここも押えておいて欲しいところです。

羽黒館も改変が激しいので遺構は明瞭ではありません。これは虎口附近の堀かな? 羽黒三社と徳岩寺の間の道路は、天然の沢を利用した堀切でしょう。写真は沢の上手に残る泥田堀の痕跡。

羽黒三社となりの徳岩寺はもともと中条氏の菩提寺であったようですが、墓石等はないようでした。 徳岩寺裏手の土塁の痕跡。この羽黒館から東館にかけて、山麓線に土塁が続いていたらしいのですが、現状ではわかりづらくなってしまいました。

 

交通アクセス

日本海東北道「中条」IC車15分。

JR羽越本線「中条」駅より徒歩60分。

周辺地情報

中条町内の江上館は「奥山荘歴史の広場」という素晴らしい施設として整備されました。これはセットで見学。尾根続きの伝・古鳥坂城も興味があればどうぞ。この他、櫛型山脈には各主峰、支峰ごとに古城が点在します。金山城館遺跡はぜひ見てください。

北に行くなら平林城村上城、南なら新発田城は必須ですね。

関連サイト

中条町のHP。櫛形山脈の縦走マップが重宝します。

奥山荘の頁を作りました。こちらもご覧下さい。

 
参考文献

「黒川村誌」

「日本城郭大系」(新人物往来社)

「図説中世の越後」(大家健/野島出版)

「ふるさと散策」(中条町教育委員会)

「中条町の文化財」(中条町教育委員会)

現地解説板、奥山荘歴史館配布資料、中条町教育委員会提供資料

参考サイト  

埋もれた古城 表紙 上へ