有力国人領主のお正月

色部氏年中行事

いろべしねんちゅうぎょうじ

新潟県岩船郡神林村平林

雪に埋もれた元旦の平林城(2006.01.01)

 

中世観測衛星「えちご」 観測報告書:その5

越後北部、小泉庄色部条にはかつて秩父平氏系の色部氏が有力な国人領主として君臨していた。色部氏は天正三(1575)年の上杉家の軍役帳において277人の軍役を負担、揚北地方筆頭の実力を備えた一族であった。その色部氏には四季折々の祭儀・祝儀や貢納品などが記された「色部氏年中行事」(以下「年中行事」と記す)という記録が伝わっている。この「年中行事」では、主に正月の儀礼や秋の祭典、そして色部氏領であった粟島からの貢納物などが記されており、地方国人領主の生活、とりわけ「ハレ」の場における風習や領主・家臣・領民らによる合意によって成り立つお互いの信頼関係の形成などが伺える、貴重な記録である。いや、難しい研究は専門家に任せよう。ここでは越後の片田舎における戦国武将の素朴で奥ゆかしい正月行事を空の上から観測してみよう。

【色部氏と支配地域】

小泉庄は越後最北端の荘園である。その成立は定かではないが、平安時代には中御門家に庇護された寄進系荘園として存在していた。この小泉庄に入部したのが色部氏、本庄氏である。色部氏はもともと秩父平氏出身である。有名どころでは畠山氏や河越氏などと同族である。色部氏の祖・為長は越後国瀬波郡小泉庄加納色部条の地を賜り、色部氏を称したという。秩父平氏が越後に入封したのはいつであるか確実な史料はないものの、おおよそ近接する三浦和田氏(中条、黒川氏ら)や近江源氏系の佐々木氏(加地氏ら)の入封時期を考えても、鎌倉時代初期に入封したとみていいだろう。色部氏を名乗るようになったのは建長年間(1249-55)ごろであったという。ちなみに為長の兄・行長は同じく小泉庄本庄に入部し、のちに本庄氏を名乗ることとなる。つまり本庄氏と色部氏はごく近い同族ということになるが、両家は嫡庶の関係ではなくあくまでも対等の関係であったようだ。

色部氏の支配地域は小泉庄の加納と呼ばれた地であり、色部条・牛屋条と沖合20kmの日本海に浮かぶ孤島・粟島からなる。色部条は現在の神林村北部と、村上市のうちの岩船集落周辺であり、「神納」の地名が残る。岩船集落は港町で、現在も漁港として、また粟島への玄関として用いられているが、中世と大きく違う点としては当時はこの附近に大きな潟湖「岩船潟」が存在したことである。岩船潟の周囲には市が立ち、色部領内の商業の中心地でもあった。現在も「三日市」や「七湊」など、市や水運の要衝であったことを示す地名が残る。牛屋条は神林村の平林地区周辺である。こちらも荒川という大きな川の河口附近に面しており、水運の要衝であった。塩谷集落では塩焼きが行われ、また対岸の桃崎集落とは渡しで結ばれ、桃崎には渡し守りの番人がいた。おおよそ色部氏の本領は現在の神林村と粟島浦村、村上市の一部とみていいだろう。戦国時代までには事実上隣接する荒川保も色部氏支配下に入り、三瀦氏や越後河村氏系統の垂水氏らを支配下に置いている。

このころの色部氏の居館がどこであったか、定かではない。色部氏累代の居城である平林城は色部条ではなく牛屋条に属している。かつ、平林城は南北朝期に色部氏が在地領主の平林氏を滅ぼして自らの居城としたものであるという。この平林氏がどういう一族であったか、本当に平林城を居城としていたかどうかは確証がないが、とにかく当初の色部氏の居館は平林城ではなく、現在の神林村北部にあったと思われる。

色部氏の支配領域、小泉庄色部条・牛屋条と粟島の位置関係。境界線はおおよそのものである。

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戦国初期、越後守護代の長尾為景が守護・上杉房能と対立するようになると、色部昌長は房能方についたが、房能は永正四(1507)年に攻め滅ぼされてしまった。色部氏や本庄時長らは為景に徹底抗戦し、昌長は平林要害に立て籠もったが、永正五(1508)年五月にはついに平林要害も陥落、昌長は為景に降伏した。

天文二(1533)年、上条定憲が長尾為景に対して挙兵すると、色部勝長は為景から離反し、上条勢に加わっている。為景の死後は為景の子・晴景に従うようになるが、その後上杉定実が奥州伊達氏から養子を迎えようとした際にはこれに反対した。これは伊達稙宗の妻が隣接する奥山庄の鳥坂城主・中条藤資の妹であり、中条氏の勢力の強大化を警戒した揚北諸将が中条氏、伊達氏と対立したものである。天文八年には伊達氏の大軍が小泉庄に押し寄せ、本庄城、大葉沢城が陥落、平林城も囲まれて危機に陥った。結局このときは伊達氏家中で内紛が勃発し、養子縁組も立ち消えになり危機を脱することとなる。このころ色部氏の家中においても家臣出奔事件が発生、本庄氏や鮎川氏、小河氏らの間でもイザコザが絶えず、この間に揚北諸将は夥しい数の起請文を取り交わし、極力軍事衝突を避けようと努めている。

戦国期に活躍した色部勝長は長尾景虎(上杉謙信、以下謙信と表記)に従い各地を転戦したが、さすがの謙信も多少気を遣ったようで、第三次川中島合戦においては色部勝長に対して「雪の中大儀であるが、どうか夜を日に継いで参陣してほしい」と懇望、これに対して勝長は一ヵ月後に漸く重い腰を挙げて出陣し、謙信はこれを喜んでいる。永禄四年の有名な第四次川中島合戦においては奮戦を賞され、いわゆる「血染めの感状」を賜っている。謙信の信頼も篤く永禄七(1564)年には占領地である下野唐沢山城に城代として配置されている。勝長は永禄十一(1568)年に勃発した同属の本庄繁長の謀反の際に陣没(戦死説・病死説あり)している。謙信はその死を惜しみ、後見の三瀦氏に対して幼少の弥三郎(顕長)をよくよく補佐すること、また色部氏を上杉家中においては本庄氏よりも席次を高く置くべきことなどを伝えている。色部氏は天正三(1575)年の上杉家軍役帳では227人の軍役を負担している。これは越後北部の阿賀野川北岸地域の豪族、いわゆる「揚北衆」においては筆頭、上杉家全体から見ても7位に相当する。この軍役のウラには多少の事情があるのであるが、それはまた別の機会に話をしよう。いずれにせよ色部氏という一族は相当な実力を持つ有力国人領主であったことがわかる。

色部勝長の死後は顕長、その弟長実(長真)と続き「御館の乱」「新発田重家の乱」を上杉景勝の配下で戦い生き残った。天正十八(1590)年、色部長真は出羽仙北郡における太閤検地に抗う一揆鎮圧後の奉行として出羽大森城に派遣され、暫く駐留している。その後長真は秀吉の朝鮮侵略戦争、文禄の役にも従軍したが、文禄元(1596)年九月十日、病によって死去した。

慶長三(1598)年、上杉景勝の会津移封に従って色部氏は小泉庄を去り、出羽米沢の金山城主に任じられた。色部氏の主要な家臣団もこのとき米沢に移ったものであろう。今や色部という名字も、主要な家臣の名字も知る限りほとんど見かけなくなってしまった。

色部氏の居城、平林城は平林集落背後の加護山(△283m)にあった。揚北衆最大の勢力を持った色部氏であるが、加護山の山城は近隣の本庄氏や黒川氏らの居城と比べても決して規模は大きくは無く、戦国期の城郭としては少々貧弱ですらある。実は色部氏の平林城の真髄はこの山城でなく、山麓の居館にある。それは「居館」と呼ぶにはあまりにも壮大かつ堅固なものである。段丘上に構えられた居館は大きく3つの曲輪に分れ、大規模な堀切、土塁で区画され、壮大かつ複雑な遺構を残している。それはもはや「城」そのものである。戦国期の色部氏は山城を捨て、この館城を拡張したのである。現在は国指定史跡となっており、発掘作業も進められている。そしてここで取り上げる諸々の行事もまた、この壮大な山麓の居館で営まれていたであろうものなのである。

左は平林城の居館部、中は加護山の要害である。加護山要害は戦国期には積極的に拡張されることは無く、どちらかといえば小規模で古臭い山城である。これに対して山麓の居館は滝矢川を天然の外堀とした大規模なもので、これだけでも十分に城として機能する。一番奥の「殿屋敷」に色部氏家督の屋敷があったと思われる。右は現在の殿屋敷の様子。平林城の詳細はこちら。


【「色部氏年中行事」とは】

「色部氏年中行事」は色部家伝来の古文書・史料の中のひとつで、戦国時代末期における色部氏の家中行事、領内の行事の次第が記録されたものである。昭和三年に刊行された「越佐史料」の中でその一部が紹介され、昭和四十三年の「色部氏史料集」によってはじめてその全文が世に紹介された。これは米沢図書館所蔵のものであるが、さらに後年、色部正長氏所蔵本が田嶋光男氏によって発見され、昭和五十四年に「越後国人領主色部氏史料集」として刊行された。

「色部氏年中行事」の表紙には「色部氏年中行事全 永禄年中」とあるが、内容は必ずしも永禄年間のものだけではなく、むしろ天正年間の色部長真時代の記録が中心である。またその書名も表紙の題箋によるもので、本来的なタイトルは第一丁目に記されている「年始歳暮ニ惣之御百姓衆之上物并寺社神領之祝役其外品々御用之覚之日記并御身類御家風年始之御礼之次第」である。その構成は


1.正月の椀飯・御礼参上の次第
2.十二月大歳よりの準備作業の次第
3.正月行事以外の行事・神事における諸役や調え物の記録
4.領内の粟島よりの貢納品の書立
5.正月中の「御前様」の饗応・引出物の次第

新潟県立歴史博物館(新潟県長岡市)に設けられた「色部氏年中行事」のコーナー。アニメによる「吉書の儀」や復元された当時の料理が見られるなど、必見である。

と大別できる。このうち約半分が正月行事に関する記事であり、正月行事の準備、椀飯や「春之御礼」の次第、そこで出される酒肴、引出物などが詳細に記載される。正月以外の行事は秋の岩船大明神における流鏑馬、相撲奉納の儀式のことなどが比較的簡単に記されている。正月行事に関しては比較的時系列に従って統一性のある記載がなされているが、「年中行事」全体としては記載方法や時系列、用語もバラバラで、もともとが異なる成立を持つ記録類が後に一冊の記録として編纂されたものと考えられる。全体を通して解釈が難しく意味合いが取れない場所もあるが、中世末期の国人領主をとりまく儀式・儀礼のようすや食膳のようすが手に取るように分かり、非常に味わい深い史料である。では、「年中行事」から正月にまつわる事柄をピックアップしてみよう。

 

 

 

 



【年末の準備】
正月が来る前には歳末の諸々の準備がある。どんな準備をしていたか、「年中行事」から拾い上げてみる。


一、十二月十五日ニ三百文、布川ところへ渡し申し候。
一、同拾弐月十五日ニ三百文、五日市のあい(藍)物屋へ相渡し申し候。
一、同廿日ニ三百文、横浜のあい物屋へあいわたし候。
一、弐十文、布河ところへ酒代。
一、五文、たきずみ(木炭)の代。
一、弐十文、五日市のまげし(曲師)屋へ酒代。

年末にはツケの精算が行われる。領主の色部氏といえども代金を踏み倒すような横暴なことはしない。キチンと支払う物は支払うのである。これらの商人や職人は年末に椀飯に用いる細工を請け負って、酒具やタライなどを納めている。また年末には各市の商人・町人より「上がり物」がある。その中には「昆布」「ニシン」「鯖」「塩引き」「鯛の干魚」などの正月料理に欠かせない食材が含まれている。

 

一、正月御祝候おくだのもちならびニかざりの事

ここでは正月三が日の飾り餅についてこと細かに描写されている。これについては後述する。


一、拾弐月つごもり(晦日)に本百姓・やどた(宿田)の百姓まいり、御門まつ(松)たて申し候とき(中略)大門へたる一双、小もんへハ御つるくび壱双おり申し候

大晦日には色部氏の館の門に門松が立てられる。宿田は平林城のすぐ北西の集落であり、色部氏一族の宿田氏の居館がある。門松立てに参集した百姓たちには樽・鶴口(ひょうたん)の酒が振舞われる。この門松は三日の晩に門松納めが行われるまで、色部氏の門前を飾る。こうして色部氏の館は次第に正月準備が整っていくのである。

 

「殿屋敷」の虎口。ここに大門があり門松が立てられた・・・のだろうか。

【「わうばん」の様子】
色部氏の屋敷では、正月元旦から十一日までの間に約170人ほどの客が「春之御礼」つまり年頭の挨拶に訪れる。その中には色部氏家臣団の中核を為すと思われる「御親類・御家内衆」のほか在郷の各階層の被官、それらの被官が地域的な組織単位にまとめられた「衆」、さらに青龍寺、千眼寺や「せんだつやまふし(先達山伏)」などの聖職者、曲師・番匠・染屋などの職人や商人、百姓のオトナをはじめとした農民代表などの被支配層まで様々である。
これらの「御礼参上」の形態は「椀飯」と「出仕(参候)」に分かれる。「椀飯」ではお座敷に客居と主居の座を設け、「御肴五献」をはじめとした饗応が為されるが、出仕に際してはその身分や格式に応じて「御座敷」「御中間」「御ゑんのはし」などの場所で対面がなされる。対面する人数も「衆」以外は一人か二人程度で料理も一献や二献、あるいは肴なしの酒だけなど、簡単なものであったようだ。「椀飯」に関しては色部氏が参加者を招待しておもてなしをする場、出仕は責務として家臣・領民が色部氏のもとに出勤する場、とみていいだろう。

「わうばん(椀飯)」とは、貴賓客に対するおもてなし、饗応のことである。平たく言えば宴会なのだが、いわゆるドンチャン騒ぎではない。もっと厳かで、礼式に則ったものであることは言うまでもない。宴会というよりも儀式としての意味合いを色濃く持っている。

それでは椀飯の模様を眺めてみよう。とりあえず正月元日の「御親類・御家風衆」らを招いた椀飯のようすを見てみたい。


一、年々正月一日より御親類・御家風衆、春之御礼として参上之時、わうはん(椀飯)の御祝御酒・御肴之次第日記
一、正月朔日、田中・今泉・早田・山上、彼面々を始としてわうはん御坐敷之次第

客居坐上 主居坐上

一、東彦五郎

 

二、今泉大膳亮

 

三、山上土佐守

 

四、田中治部少輔

 

五、臼田雅楽助

 

六、今泉内匠助

一、田中左近将監

 

二、同太郎左衛門尉

 

三、早田九兵衛

是ハ御酌ハ不被下

四、作間喜左衛門尉

 

五、田中名兵衛

 

六、同雅楽丞

彼面々衆へ御肴五献、初献冷酒、此献之時、東彦五郎、田中将監・今泉大膳亮此三人のかたがたへ一度の御礼被成候。即めしあけられ候て下され候。二献め田中将監酒まいり候。御酌被申則御酌被下候。三献め今泉大膳酒参候。同御酌被申御酌被下候。四献めにて田中太郎左衛門尉酒参候。同御酌被申則御酌被下候。此の献の内ニ東彦五郎酒参候。是も御酌被申則御酌被下候。彼の両人ハ子細これあり、近年御座敷断絶ニ候。山上土佐守事ハ、前々は御座敷ニ被踞(ねまられ)候。中此子細候て御座敷けずられ申候。長真様御代に御座敷ゆるされ申被踞候。彼のかたかたの御酒ハまえ々々の田中左衛門尉酒出申候。四献めニ御ゆわヒ(祝い)候。そのつぎニ五献めに早田九兵衛さけ参候。其身ハ御酌被申候。是も子細候て直の御酌ハ不被下候。

この正月元日の椀飯では「御親類・御家風」衆と呼ばれる上席家臣団が集まる。これらの重臣たちについては米沢に移封の後の近世色部家に伝わる「当家言伝之品々覚書」によれは「当家ニ古来ヨリ罷有候番頭格之者共、土沢・山上・東・小嶋・三田中・早田等之者共ハ、越後旧領之節ハ何茂格段ニ、一在所ヲ持、かきあけ(掻揚げ)等を構自分被官人も数多持候者共之名字柄ニて候、依之古来ヨリ、格段之取扱ニて古来ヨリ何そ有之時ハ、家中ノ馬上以下を組付自分被官等を召連・・・(以下略)」とあり、小なりとはいえども村々の領主格の人物たちで、それぞれが掻揚げ土塁の城館や屋敷を持ち、さらに自らの家臣団も組織した上で、有事の際にはそれらの家臣を召連れて色部氏のもとに参集したのである。正月一日の椀飯参列者と近世記録における「番頭格」の者がほぼ一致する。残念ながらこれらの家臣団がどこに在所を構え、どの城にいたのかは詳しくはわからない。参考までに彼らの名字と関連のありそうな地名をピックアップしてみた。

「色部氏年中行事」に出てくる地名や家臣の在所と思われる場所をピックアップしてみた。しかし、どこを在所としていたか不明な家臣も多い。

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これらのメンバーは客居と主居とに分かれて席につき、その席次もキチンと決まっている。客居のほうが上座にあたるようである。そして、色部氏の当主は東、田中将監、今泉の上位三名に「御礼」(黙礼)を行う。そして献が進むと同時に上座の者から順々に御館様(色部氏家督)に大して御酌を差し上げ、さらに御酌を下される。しかし後半の方を読むと、この記録が書かれた時代には東彦五郎、田中太郎左衛門のふたりは「子細」があって近年「御座敷断絶」、つまり出仕停止処分中であったことや、山上土佐守も一時座敷を失い、色部長真の時代に許されてふたたび座敷に戻ったこと、早田九兵衛も何らかの子細があって御酌はするものの、御館様からの返杯には預かれなかった、ということがわかる。このうち田中太郎左衛門、早田氏については天文四(1535)年に出奔事件を起こしており、本庄房長の取り成しで色部氏に釈免されて帰参を許されたものの、これが「子細」あって出仕停止や御酌が下されない理由であったものと思われる。宴会の場においてもこうした事件が影を落としていたりするのである。

こうした「椀飯」は三日の夜、四日、七日にも行われ、さらに二十五日の「御番始」の儀には「椀飯の如く」田中氏や今泉氏をはじめとした面々が参集する。三日の夜には青龍寺住職を招いて「吉書」の儀が行われる。これについては別記する。

「年中行事」全体を通じていえることであるが、こうした座敷における席次の序列や座敷そのものの場所、出てくる肴(料理)や酒・盃の種類、色部氏家督による「御礼」の有無やその回数、返杯の有無さらには引出物に至るまで、厳しい序列関係によってこと細かく決められていたようである。いち地方のイナカ在地領主の正月の宴会においてさえ、慣れ合いの雰囲気は全く感じられない。そこにあるのは厳しい身分関係に規定された領主階層の一断面である。

【家臣団の御礼参上】
色部氏の館に「春之御礼」に訪れる約170名のうちの大半は色部氏と主従関係を持つ武士階層の者たちである。彼らは全員が色部氏からの饗応の場である「椀飯」に預かれるわけではなく、そのほとんどが簡単な酒肴でもてなされている。この酒肴の内容や肴の数、御館様の「御礼」の回数、引出物などには各被官の身分や血縁によって細かく規定されていた。全部は紹介できないので、以下いくつか典型的な例をピックアップしてみる。


(正月二日)
一、田中兵部少輔出仕之事、御肴三献。初献五ツくミの肴にて御冷酒参候。此時兵部少輔ニ一度の御礼候て則被召上候(以下略)
一、垂水平兵衛、御座敷御対面所、御酌被申御盃御酌被下候、三肴一献にて候
一、布施図書助、御座敷御中間、御酌被申則御盃酌共ニ被下候、三肴一献にて候

田中氏は色部氏家臣団の中でも筆頭クラスであったようで、近世色部家に伝わる「当家言伝之品々覚書」においても「三田中」と記載されているとおり、三家ほどがあったようである。このうち田中太郎左衛門家は天文四(1535)年に前述の色部氏からの出奔事件を起こしており、「年中行事」の時点では座敷断絶(出仕停止)処置が取られていた。この田中兵部少輔は田中家の別家であろう。それでも田中家の家格が高かったことは三献の肴が出されていること(他は一献)、御館様が一度の「御礼」を行っていることからもわかる。

垂水平兵衛は現在の関川村垂水の領主の一族であろう。もともとは荒川保に入部した河村氏の後裔であるが、河村氏は南北朝期に南朝に与して滅び、生き残った一族がが垂水氏を名乗っている。このころには色部氏の被官となっていたのであろう。

布施氏は在所は不明だが、この一族は代々正月行事において「年男」に任じられた家系らしい。年男というのは現在の意味とは異なり、干支とは何の関係もないようだ。正月行事の仕切り屋のような存在で、実際に椀飯の席においても「布施又七」という人物が酌人として登場する。宴会の裏方として活躍する布施又七は正月八日まで色部氏の館に泊まりっぱなしで、八日の晩にいとま乞いをし、引出物として昆布、ニシン、大根や酒を頂いて自分の家に帰る。


(正月二日)
一、色部右衛門尉殿為御礼御出候時、御肴三献。初献冷酒、二度の御礼被成候。二献目右衛門尉御酒参候。御酌被申候。三献め御てい酒参候。先右衛門尉殿被進、其後被召上候。則御酌被成、山中紙一束扇子一本被進候。御供衆一両人被召出、御酌ニ而召出し被下候。

(正月五日)
一、飯岡刑部大輔殿御参候時、御肴三献初献くぎやうにて候。五ツくミ冷酒参候。此時二度之御礼被成候。二献め大輔殿御酒参候。御酌被申候。三献め御てい酒参候。直の御酌にて大輔殿へ被進候。山中紙一束・扇子壱本御引出物ニ候。其後御館様被召上候て、彼飯岡殿御供衆長敷者被召出、座敷ニ被差置、御酌御盃共ニ被下候

一、大沢惣六郎殿御参候時、御座敷御中間、肴三献。初献冷酒三肴、一度之御礼被成候。二献め惣六郎殿御酒参候。御酌被申候。三献め御亭酒直々御酌候て、先御館様被召上、其後惣六郎殿被進候。厚紙一束・扇子一本御引物二被進候。

(正月七日)
牛屋右近殿御出仕之事
御座敷御対面所、御肴三献。初献冷酒、二度ノ御礼被成候。即御館様被召上右近殿被進候。二献め右近殿御酒参候。御酌被成候。三献め御亭酒直之御酌にて右近殿被進候。山中紙壱束、扇子壱本御引出物ニ候。其後御館様被召上、彼右近殿家中長敷者ニ御酌にて被下候。

色部右衛門尉は色部氏の一族、御親類衆であろう。こうした近親者は他の家臣団とは別格扱いになっていて、「年中行事」においても色部右衛門尉をはじめ、牛屋右近、飯岡刑部少輔、大沢惣六郎などが「殿」付けで記載される。色部右衛門尉や飯岡刑部大輔、牛屋右近には二度、大沢惣六郎には一度、御館様が「御礼」をする。料理も三献である。さらに山中紙・扇子などの引き出物が下される。色部右衛門の場合、供の者が二名ほどいたらしいが、このお供の者にも御酌が下される。「御てい酒」というのは「御亭主」「御亭酒」「御てい主」などとも記載されており、意味合いについては「御館様=亭主の酒」とか「酒宴などの世話人」という解釈も見られる。しかし「御亭酒」が「直の御酌」で下されている場面などを見ても、世話人ではあるまい。また、初献として振舞われる冷酒などの他の振る舞い酒とも明確に区別されている。こうして考えると「御てい酒」とは単なる御館様の振る舞い酒ではなく、祝い事などに際して御館様より賜る、他の酒とは区別された特別な酒のことではなかったかと思われる。具体的には御神酒などを想定してもいいのではないだろうか。

酌・盃もまた明確に区別され、さらに色部氏家督が手ずから酌をする際には「直の御酌」とされているところを見ると、酌そのものも御館様よりの直の酌と、酌人(布施又七であろう)を仲介とするものの二通り、また御館様より直に給わる盃によって酌を受ける場合と、別な盃を使う場合の二通りがあるらしいことが伺われる。

また参上者は祝い酒を持参する慣わしであったようで、宴の最中にその酒が開けられて酌み交わされる。これは「年中行事」の至るところで見られる記述である。場合によっては一献の間に複数の参上者の酒が開けられたりしていたようである。今でも祝い事の際には酒を持参することが多いが、同じと考えていいだろう。


(正月一日)
一、落合主葉丞、彼方黒河(川)より被罷出候故、御肴二献。初献冷酒、二献めにざうに(雑煮)、落合もたせの酒御酌被申候。則御酌被下候。黒川ニおゐてもしんるいニ被渡候。
一、桃川右馬丞、是ハ御肴二献。初献御冷酒、二献めぞうに、右馬丞もたせの御酒参候。御酌被申則御盃御酌被下候。初献冷酒の時御肴四ツくミに候。

(正月五日)
一、鈴木太郎左衛門尉、是ハ保内(荒川保)にねまり候ものなり。根本ハ本庄の家中にて候。別而申分候て御契約申候。兄弟共三人何れも御盃御酌被下候。御座敷御中間。

落合氏は南に隣接する黒川氏の一族である。「親類」というのは色部憲長の息女(勝長の妹もしくは姉)が黒川清実に嫁いでいることを指しているものであろう。このような他家からの参上者については五日の鈴木太郎左衛門尉の「御契約申候」、二十五日の脇川氏の例では「是ハ本庄ヨリ御契約申ものにて候」という例がある。「本庄」とは隣接する本庄城主・本庄氏のことである。この「御契約」を被官ととららえていいものかどうかは難しいが、息女の婚姻の際に名目上の世話役として家臣を数名付けることもあり、こうした背景があって本庄氏出身の鈴木氏や脇川氏が色部氏の家中にいたのかもしれない。

桃川右馬丞は桃川(百川)の地侍であろう。落合氏、桃川氏ともに「もたせの酒」つまりお祝いの酒を持参し、それが披露されていることがわかる。桃川氏の酒は「御酒」と書かれているところをみると、落合氏などよりはやや席次が高いのかもしれない。オツマミは御肴二献、ニ献めに雑煮が出るあたりは同等である。「御肴四ツくミ」は意味不明だが、四つ組(品目)ということであろうか。

 

(正月一日)
一、長藤七郎   一、村山弥八郎
一、瀬賀三郎二郎 一、瀬賀彦三郎
一、同太郎    一、御小使佐藤
彼ものとも御盃御酌被下候。御酌ハ不申候。

これらの者たちは比較的下位の家臣層であろう。まとめて六名と対面し、御酌は下すものの彼らからの酌は受けなかった。「年中行事」においては「小嶋同名衆」「牛屋衆」「三瀦分衆」などの「衆」という単位で対面・饗応している場面が数箇所ある。これらによって色部氏の家臣団には「衆」と呼ばれる地縁的な組織単位があったことが伺われる。


(一日)
一、村田、是ハ浦分(粟島)の御小使ニ候。御対面所ニて候。御盃計被下候。

この村田なる人物は粟島よりの「小使」であった。粟島は日本海に浮かぶ絶海の孤島であり、真冬である正月の時期には海を渡ることはできない。従って代理人を遣わす慣わしだったのだろう。身分の低い小使に対しては料理はなにも出ず、盃ばかりが下されていた。

これらは一例ではあるが、色部氏のもとにはこうして沢山の者がお祝いを述べに参上する。そのお祝いの席においても血縁や身分などによって様々な格式があるのである。色部氏も正月からずっと酒ばかり飲んでいるようであるが、決して飲んだくれているのではなく、こうした御礼参上という場を通して主従関係を確かめ合い、色部氏領内における各々の立場を自覚しあう場なのである。色部氏はその小さな地域社会の頂点に君臨するものとして、これらの客人と対面し、酒を飲んだり御酌をしたりすることが「仕事」だったのである。

左は2006年正月1日の、右は2007年正月3日の平林城である。手前に突き出た段丘が山麓の居館である。2006年は豪雪で近づくことも出来なかった。戦国時代も雪の多い年は「御礼参上」も大変であっただろう。しかしそういう正月もまた奥ゆかしく、趣のあるものである。


【吉書の儀】

吉書(きっしょ)とはその字面どおり、吉事に際して記される書のことで、武家においては将軍宣下の際や代替わりなどの節目において、祝い事のひとつとして吉書が記される。そしてこれは正月に年頭の祝い事のひとつとしても執り行われている。武家における吉書はある程度内容が決まっているようで、形式は三ヶ条の箇条書き形式、その内容も


一条目:神事のこと=神仏を尊ぶこと
二条目:農桑のこと=勧農に関すること
三条目:乃貢のこと=年貢を滞りなく納めること

と相場が決まっていたようである。色部氏においてもこれは同様である。色部氏の正月行事においてもこの吉書の儀は特別なものであり、正月三が日の締めくくりとして執り行われる。いわば正月行事のクライマックスである。では色部氏ではどのように吉書の儀が執り行われていたのだろうか。

 

一、三日之夜のわふばん五献。初献冷酒、青龍寺へ御礼三度、先青龍寺被召上、其以後殿様被召上候。何も又七酌にて給候。二献めかんしゆ(燗酒)、ざうに(雑煮)。三献目ニ百姓衆けわいおけ(化粧桶)の酒面へもたせ、おゑん(お縁)におゐて本百姓のおとな、塩引をはやし御引肴申候而青龍寺吉書をあそはし、其上ニ彼たいへい(大瓶)の御冷酒にて又七酌申、御館様被召上、其後青龍寺へ被進候。各何れも被下候。四献めにかんしゆ参候。御すいもの肴に候。是も何も被下候。五献め御引肴にて御館様直の御酌にて青龍寺へ被進、山中紙一束、扇子一本御引出物ニ被進候。重而御酌被成候。田中・今泉を始めとして惣躰の御家内衆ニめし出被下候。又百姓衆前代ハ御酌不被下候へとも、長真様御代ニ被仰分候而何れもニ御酌被下候。又青龍寺初献之御肴、くぎやう(供饗)にて白木のごき(御器)同四にて、四ツくミに被成候。すいものの時ハ、宿田の百姓分ヨリあかり候せり(芹)を料理被成出候。又御吉書之時塩引の引肴之時ハ青龍寺へハ何なり共とりあい次第に御肴出候。

正月三日の夜更け、おそらくは20:00とか21:00ごろであろうか。夕方には門松が納められ、飾り餅も片付けられた。いよいよ三が日の締めくくりである。外はしんしんと雪が降り積もり、冷え込みも増してくる。色部氏の座敷に揺れる蝋燭の炎、浮かびあがる影、そして青龍寺住職の吉書がおごそかに読み上げられる。なんとも神秘的で幻想的な光景ではないか。想像しただけで体が震えてくるようである。正月三日の夜というと今では休みもそろそろ終り、コタツに入ってテレビをみながらウトウトしている頃であろうか。今から400数十年前はこんな厳かで神秘的な夜を迎えていたのである。

この椀飯では、青龍寺、田中・今泉らの御家内衆、そして百姓衆までが参列していることがわかる。この椀飯の前半の主役は青龍寺である。御館様は三度の御礼をし、酒もまず先に青龍寺が飲む。青龍寺への御肴は白木の御器に盛られた「供饗」である。又七というのは年男の布施又七のことである。三献目に吉書の儀が行われる。このとき百姓衆は塩引きの酒をはやし(削っ)て引き肴とする。そして青龍寺の吉書となる。吉書が終わるとここからは御館様が主役となり、まず御館様が冷酒を飲み、それを青龍寺に進ぜる。四献めに吸い物が出てくる。この吸い物には宿田(平林城のすぐ西にある集落)の百姓が納めたセリが料理される。五献めには御館様直の御酌で青龍寺に酒を進ぜ、山中紙ほかの引出物が下される。そして御家内衆はもちろんのことであるが、色部長真の代からは百姓衆にまで御酌が与えられていたことが分かる。これは戦国末期に近づくにつれて相対的に百姓の地位が重視されることになったことも顕している。

肝心の吉書の内容は「年中行事」には記載がない。しかし近世色部氏に伝わる「当家言伝之品々覚書」の中にこれが記載されている。


一、正月三日、青龍寺ヨリ古来ヨリ来吉書之義者、越後時代領所之国政之義ヲ年始故祝候而、相調吉方江張申したる古実相残とも、右之通正月八日日待之時吉方江張之、三月三日、差置三日納申古法ニ候、此端作之文言ニ色部・牛屋両条と有之

吉書之文談左之通

色部・牛屋両条早可致沙汰事
一、先可奉神社仏寺等事
  (略)
一、可築固溝池堤事
  (略)
一、不可為御年貢以下雑米等未進事
  (略)

                青龍寺

一条目が神事、二条目が農桑、三条目が乃貢と、この吉書も武家における三ヶ条の吉書の体裁と同じであることが分かる。神仏を報じることは領主・領民双方の責務である。池や溝、堤を築いて灌漑施設を整え農業生産のインフラを整備することは領主の責務である。そして年貢を納めることは領民の責務である。大切なことはこれが祈願所である青龍寺の名において執り行われること、その場に色部氏当主とその家臣、そして百姓衆の代表者(オトナ)が同席していることである。領主・家臣・領民を聖職者の元で立ち合わせ、年の始まりにあたってお互いに守るべき責務を確認しあうのである。これは決して形式的なことではなく、当時者たちにとってはその領国・領域における合意の形成の場であり、「国政之義」そのものなのである。吉書とは形式的な儀礼と捉えがちであるが、その守るべき責務を相互に確認するための約束事であり、信頼関係を再確認する場でもある。その場に立ち会った人間はそれを了承したことになるのである。「聞いていなかった」とかでは済まされない。

この吉書の儀が「書初め」という習慣の始まりであるという。小学生諸君、書初めとはそういうものであるらしいぞ。「青い空」とか「初日の出」とか書いている場合じゃない。家族や自分が守るべき事柄を書いて相互に誓い合いたまへ。

 

「吉書の儀」ライブカメラ画像

色部氏の館で行われる吉書の儀を中世観測衛星「えちご」に搭載したライブカメラで撮影することに成功した。そこには領主・家臣・領民による信頼関係を形成する、美しい儀式の模様が撮影されていた。

@正月三日の夜、色部氏の館に集まった人々。色部氏家督、重臣はもちろんのこと、百姓のオトナも呼ばれる。 A吉書の儀の主役は青龍寺である。御館様(色部氏家督)はまず三度の御礼をする。

B酒もまた青龍寺が先に呑む。そして三献の膳が進み、吉書の儀となる。 C吉書の儀では青龍寺が神事・農桑・乃貢の3点を読み上げる。ここに立ち会う武士も百姓も、すべてが当事者として互いの責務を確かめ合う。
D青龍寺の吉書が終わると、座の主役は御館様に移り、まず御館様が燗酒を呑み、次に青龍寺がこれを賜わる。 Eそして座に居合わせる全員にも酒が振舞われる。長真の時代からは百姓も御酌を受けるようになる。

(この画像は、新潟県立歴史博物館の常設展示コーナーに設置されたモニタ画面で流されているアニメーションである)


【戦国料理プチレシピ】

それでは彼らが宴の場で食べていた料理はどんなものであっただろう。ここまでの記述でも「ざうに(雑煮)」「御すいもの(お吸い物)」「塩引き」などの料理があったことがわかるが、ほかにはどんなものが出ていたのだろう。


(正月三日)
同三日の晩ニひめなおしの御食ニすぢこをおまハりニいたしあけ申し候

(正月五日)
一、金津左馬助参候時(中略)こわめしを湯漬ニ被成(中略)是ハ湯漬のはしめにて候

一、同五日に金津被参候時、御湯漬はじめ被成候(後略)

正月三が日には「こわめし」つまり赤飯が出されていた。そして三日の晩に「ひめなおし」がある。これは別にイヤラシイことをするのではなく、姫飯つまり普通のご飯に切り替わる日なのである。そこには「すぢこ(筋子)」が添えられる。「お廻りにいたしあげ」はよくわからないが、巻き寿司のようにするのであろうか。残った赤飯は五日の日に湯漬始めとして出される。さらに六日には田中太郎左衛門の泊まり初めがあり、その際には塩引き鮭、鯖の寿司、ありのこ(梨の種)、昆布のすしなどが出され、それとともに「こわめし」が湯漬けにされて出される。
八日には青龍寺・最明寺を始めとした衆徒の参上があり、その際には巻き昆布、ひじき、大豆、鯖、ニシンなどが振舞われる。案外、我々が食べているものと大きく変わらない。

正月の食べ物といえば餅であるが、これもしっかり「年中行事」に出てくる。


一、十二月大年ヨリの事、正月御祝被成候。御くだのもち并ニかさりの事。

一、めくろもちおしもちニいたし五ツ、しろいもち、是もおしもちニいたし五ツ、長さ一尺ほと宛ニきりもちニ仕、ニやうともニうちまぜ、御くぎやうニもり、御さら六をなかニぬかを入、かミをはり候て、六ツなからすへもの御さらに串柿九ヲ三ツ宛くしなからより候て、三所ゆい、三ツ宛九ヲ一束ニゆい、御さらにすへ申候。又山のいも、是も三ツを壱はにたはねてより候て、是も三所ゆい御さらにすへ申候。又ところも三ふしを一はにゆい、是もよりにて三所ゆい、又まつかさ三ツをよりにて中をたはね、是も御さらにすへ申候。又こぬかをくろくいり候てめしの湯にてこねかため候て、梨子のなりにまろめつくり、同ほそき木を梨子のぢくのことくニさし候て、是もおさらにすへ申候。又生栗三ツ、是もおさらにすへ申候。串柿・いも・松かさ・ところ、この四種をばもちのしろこにて上をぬり、御さらにすへ申候。巳上六種を六ツの御さらにすへ候て、大年ニかざりたて、元日ヨリ三ケ日御祝被成候。


これは「御くだの餅」と呼ばれる飾り物である。食べるためというよりも、お供えのための飾り餅の一種である。文章だけ読むとなんだかさっぱりわからないが、この飾りを新潟県立歴史博物館で復元展示している。

めくろもちとは黒い餅のことである。この黒い餅と白い餅を切り餅にして五枚重ねたものが御くだの餅である。その周囲には串柿、山芋、ところ(芋の一種)などは三つずつ串刺しにして結い束ねる。ありのみは糠を炒って丸めて梨のような形状にしたものである。食べたことがないので美味いかどうか分からない。まつかさは松ボックリである。これも三つを束ね、餅の粉を塗りつけて白くする。これは食べるのか単なる飾り物かよくわからない。
この御くだの餅は年末に準備され、三が日の間、祝いとして飾られる。そして八日の青龍寺らへの饗応に出されて食される。


(正月八日)
(前略)其後あつきもち何へも被進候

小豆餅、おしるこにして食べるのである。小豆も餅も、今も昔も慶事の際のハレの食材である。
同じような餅を用いた飾り物に「御戴の餅」の祝いがある。これは黒い餅1枚と白い餅2枚を供饗に載せ、ニシンとヤドメの枝、豆を沿えたものである。この「殿様御いたゝきの餅」は正月十一日に法勝寺に対する返礼の中で一枚が届けられる。おそらく青龍寺、興聖寺などについても同様であっただろう。このように餅には食べたり飾ったりするだけでなく、ハレの場における贈答品としての性格もあるのである。この「殿様御いたゝきの餅」はさらに十五日に御祝として飾り付けられる。これは小正月の祝いであろう。


一、同十六日ニはんかたのもち一まい、もゝざきのわたしのもり(桃崎の渡しの守)まいり候とき出申し候

桃崎集落の渡し守の引出物としても出されていた。

もちろん、現代でいうところの鏡餅もある。これは「御くそく(具足)の餅」と呼ばれ、二十五日の御番始の儀で食膳に出される。


(正月ニ十五日)
同廿五日御番始、田中・今泉其外何も椀飯のごとく御参候。御具足の餅、あつきにてさせられ、何れもニ被下候(後略)

ここでも小豆餅にされて食される。ここでは年男の布施又七の酌によって濁酒が振舞われる。この濁酒と小豆餅の風習は近世色部家にも受け継がれていたという。

 

 

色部氏正月料理ライブカメラ画像

色部氏の館で食される料理の品々を中世観測衛星「えちご」のライブカメラで撮影したもの。器や料理に「赤」が多いのは古来、「赤」はめでたい色とされ、「ハレ」の場を飾るのに相応しい色だからであろう。食べている物自体は中には滅多にお目にかからないモノもあるが、案外現代人が食べるものとも共通している。ちなみにソレガシは筋子やハラコが大好きで、コレとご飯があればオカズは何も要らない。

一献目の御肴、餅と納豆、ニシンである。一献目は普通、冷酒が振舞われたようだ。 二献目、開き大豆(左上)、塩引き(右上)、ニシン(右下)。中央に盃が置かれる。二献目では御礼参上者持参の酒「もたせの酒」が披露されることが多かったようだ。
これが「御くだがさねの餅」である。白い餅と黒い餅を交互に重ねたものである。添え膳には串柿、生栗、ありのみ等が並んでいる。「まつかさ」は食べ物なのか飾りなのか、よくわからない。 「家例昼之祝」の膳。これは「年中行事」に記載が無いので近世の記録による復元であろう。鮭や鯖、ニシン、ハラコなど海の幸が多い。ニシンの吸い物が抜群に美味そう。これを見ていると腹が減ってくる・・・。
これらの写真は新潟県立歴史博物館の常設展示コーナーで復元され展示されているものである。

【正月以外の行事】

正月以外の行事として七夕に祝いとしてソウメンを食べること、九月十九日には岩船大明神にて祭事が行われ、流鏑馬が奉納されることなどが記されている。この流鏑馬は農作物の豊穣を祈願するものであり、矢の当たり外れによって作柄の吉凶を占ったという。それだけではなく祭事という場において、色部氏が領民を束ねる領主として君臨していることを示すための政治的なデモンストレーションの場でもあったのである。その他の記述については簡単に箇条書きされているだけであるから、またの機会に譲ることとしよう。

「流鏑馬」ライブカメラ画像

今度は秋の岩船大明神で奉納される流鏑馬の模様を撮影に成功。色部氏の殿様、なかなかりりしくてカッコイイではないか。当然矢は命中、「これで今年も豊作じゃ」となる。

流鏑馬を披露する色部氏。目つきが真剣そのものである。よく見ると馬も結構真剣な目つきを・・・。 喝采を浴びてパドック(?)を戻る色部氏。モチロン矢は命中である。武芸の達人、色部氏には敬愛をこめてヤブサメレンジャーの称号を・・・。

(この画像は、新潟県立歴史博物館の常設展示コーナーに設置されたモニタ画面で流されているアニメーションである)


【結び】

「色部氏年中行事」は有力国人領主と家臣・領民の関係や祭事への関与など、領内統治の研究素材として注目されている。しかし自分のようなシロウトには、政治的支配体制がどうだとか、領国における権力構造が云々といったことはよくわからない。ただ純粋に、田舎の在地領主の正月行事がいかにも奥ゆかしく感じられるのである。彼らの正月行事や正月料理は決して派手ではなく、むしろ質素なものである。しかしその質素な正月行事、正月料理の中には素朴な「祈り」や「ハレ」が感じられる。「椀飯」はドンチャン騒ぎとは正反対の、おごそかで神聖な雰囲気すら感じられる。そうした雰囲気の中で領主・家臣・領民の合意形成が図られ、信頼関係が再確認される。なんという美しい正月の姿であろうか。私はそうした素朴な光景に打ち震えるほどの感動を覚えてしまうのである。もちろんこの「色部氏年中行事」はあくまでも色部家における記録であって、ここで示される行事が中世領主層で普遍的に執り行われていたものかどうかは即断できない。しかし、「椀飯」や「吉書」はある程度武家の間で浸透していた慣わしであったようなので、もしかしたらアナタの家の近くのお城でも、こうした行事が行われていたかも知れないのだ。

振り返って現代の正月を見てみると、食べているものや門松、飾り餅の風習などは案外現代の正月に近いものもある。田舎の正月料理などはほとんどこの当時のままといってもいいかもしれない。反面、「祈り」や「ハレ」の場としての正月の姿は失われつつあるのかもしれない。現代の正月は多くの人にとって冬休みの期間であり、レジャーに明け暮れたり、酒を飲んでコタツでテレビをつけっ放しにしながらゴロゴロ、ウトウトしたりしているうちに休みが終わってしまう。別にそれは悪いことではないのだが、正月に対する神聖な心構えというものは失われつつあるのかもしれない。色部氏も正月から酒ばかり飲んでいるようであるが、決してゴロゴロ寝正月を送っていたわけではない。むしろ一つ一つが領内統治のための仕置であり、仕事だったのである。

最後に「色部氏年中行事」を読みたいと思ったアナタに情報を。色部正長氏所蔵本をもとにした「越後国人領主色部氏史料集」(田島光男編、1979)はおそらくほとんど入手不能に近いと思う。古本市場に出ているのを見たことが無い。ただし、新潟県内のいつくかの図書館で閲覧は可能である。米沢図書館本を元にした「色部史料集」(井上鋭夫編、1968)も入手は難しいが、これは古本市場で時々出回っている。少々高いが入手したい方はコチラを狙うのが良いであろう。「新潟県史 資料編4」(1983)にも色部氏所蔵本が収められているというがコチラは見ていないので詳細はわからない。図書館などで確認してみてほしい。

さて「色部氏を見習って来年の正月はピリッと過ごそう」と考えたアナタ、もはや時代は違うのである。無理せず正月はリラックスしてお過ごし下され。どうせこれを書いている自分も、そうやってダラダラと正月を送ってしまうのであろうし・・・・。

[2007.01.14]

※この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図200000(地図画像)、数値地図50000(地図画像)および数値地図50mメッシュ(標高)を使用したものである。

(承認番号 平15総使、第342号)

参考文献

『越後国人領主 色部氏史料集」(田島光男 編/神林村教育委員会 1979)

『色部氏史料集』(井上鋭夫 編/新潟史学会 1968)

『祝儀・吉書・呪符―中世村落の祈りと呪術』(中野 豈任 著/吉川弘文館 1988)

『越後中世史の世界』(佐藤博信 著/岩田書院 2006)

『図説中世の越後』(大家健 著/野島出版 1998)

『戦国の村を行く』(藤木久志 著/朝日新聞社 1997)

『村上市史』

『神林村史』

『関川村史』

『荒川町史 史料編』

『上杉謙信・戦国最強武将破竹の戦略』(学研「戦国群像シリーズ」)

『上杉家御書集成T・U』(上越市史中世史部会)

『上杉家御年譜 第一・二巻』(米沢温故会)

 

新潟県立歴史博物館 常設展示物

参考サイト

  

※このコーナーでは、DAN杉本さん作成のフリーの山岳景観シミュレーションソフト「カシミール3D」と国土地理院発行の数値地図(1/5万および1/20万)を使用しています。 

※この頁の制作にあたり、多大なご協力を頂いた新潟県立歴史博物館に篤く御礼申し上げます。 

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