光秀が愛した丹波経営の拠点

福知山城

ふくちやまじょう Fukuchiyama-Jo

別名:横山城,臥竜城,八幡城

 

京都府福知山市内記

城の種別

平山城

築城時期

天正七(1579)年

築城者

明智光秀

主要城主

明智光秀、杉原氏、小野木氏、有馬氏、朽木氏他

遺構

曲輪、石垣、井戸、移築現存番所、復原天守

復原された天守と転用石の石垣<<2001年11月24日>>

歴史

もともとは小笠原長清の後裔塩見大膳頼勝が横山城を築いたのに始まる。天正三(1575)年に織田信長に丹波平定を命じられた明智光秀は天正七(1579)年六月に横山城の塩見大膳信房、八上城の波多野氏を降し丹波一国を平定、横山城の地を新たに福知山と命名し改修した。築城に当たっては付近の寺社などから墓石や五輪塔等を多数供出させている。光秀本人は主に亀山城を丹波での居城とし、福知山城には甥で女婿にあたる明智秀満を置いた。光秀が女婿の細川忠興の宮津城を訪れ天橋立で遊興した際には福知山城に立ち寄って秀満の饗応を受けた。光秀は民政にも力を入れ、地子銭免除や河川の改修などの善政をしいたとして、民衆の高い支持を得て、江戸時代から御霊神社に祀られるなど敬慕された。

織田信長に羽柴秀吉の備中高松城攻めへの援軍を命じられた明智光秀は天正十(1582)年六月一日夜半、亀山城を進発した。光秀は老ノ坂を東へ向かい、沓掛で全軍を小休止、ここで進路を京都に向かって東に取り、六月二日早暁に信長の宿所、本能寺を襲撃、信長は自刃した。信長の嫡子・信忠も妙覚寺に投宿していたが、これも光秀により攻められ、信忠は二条御所に立て籠ったが、これも抗戦の末自刃した(本能寺の変)。光秀は畿内の制圧に奔走したが頼みとした細川藤孝・忠興父子や筒井順慶などの寄騎衆の協力が得られず右往左往しているうちに、備中高松城攻めの羽柴秀吉が城将・清水宗治の自刃で毛利氏との講和をまとめ、電撃進攻で京へ向かった(中国大返し)。六月十一日には秀吉隊の先鋒、中川清秀が天王山を、高山重友が山崎を占領し、明智軍先鋒と小競り合いとなる。六月十三日、丹羽長秀・織田信孝隊が秀吉隊と合流、両軍は山崎で明智軍と激突したが(山崎合戦)、明智隊は総崩れとなり勝龍寺城へ撤退、光秀はさらに坂本城に撤退する途上、山城国伏見郊外の小栗栖で落武者狩りの土民に襲われ落命した。秀満は六月十五日に坂本城に火を放って自刃した。

光秀死後は、天正十四(1586)年に羽柴秀勝配下の城代、杉原家次が置かれ、その後青山氏、桑山氏、小野木氏が城主に任じられた。

慶長五(1600)年の関ヶ原の役では小野木重勝は西軍に属し、細川幽斎(藤孝)の守る丹後宮津城を攻めたが、細川幽斎の才を惜しむ朝廷の命により和議となり、福知山城へ撤退した。細川忠興は徳川家康の許しを得て、福知山城亀山城を包囲し開城降伏を迫った。亀山城の前田茂勝はすぐさま開城したが、福知山城の小野木重勝は井伊直政を仲介に和解を探る一方で細川軍と交戦、家康の使者、山岡道阿弥(景友)が仲裁に入ったことにより、重勝は助命を条件に降伏開城し剃髪した。しかし忠興は重勝を許さず、十一月十八日に自刃を余儀なくされた。その後は有馬豊氏が入封し、福知山城を近世城郭として改修整備した。その後は岡部氏、稲葉氏、深溝氏と城主が変遷、寛文九(1661)年、朽木稙昌が入封し、以降朽木氏13代が続き明治の廃藩置県で廃城となった。

福知山城は、亀山城とともに明智光秀の丹波経営の中心地として築城されたのですが、いわゆる「占領地」である丹波の国人と民衆に対して、光秀は常に穏やかに接していたと聞きます。光秀と言えば後年の「本能寺の変」の「天下の大逆臣」のイメージで語られることが多いのですが、領国経営には非常に熱心で、降将に対しても礼と仁を以って接し、民に対しても治水や灌漑などの善政を布いた事でも知られています。丹波は京都に近いこともあり、皇室領や将軍直轄領が多く、民衆も尊王精神が篤く温厚であったといいます。それが戦乱の時期に小豪族が割拠し、皇室領も簒奪され、高い租税率と戦乱に生活を圧迫された民衆は救世主の到来を待ち望んでいました。光秀は「占領者」であるにも関わらず、こうした民衆から絶大な支持を得ることに成功します。この頃、信長は天下布武の成就を目前にして、敵対する勢力を苛烈ともいえるやり方で粛清していた時期でもあります。反対勢力を徹底的に抹殺する信長と、常に礼を失わず慰撫に務める光秀。後年の「本能寺の変」に至る、ふたりの間のすれ違いは、この頃に始まっていたのかもしれません。

で、訪問してみてまず感じたのが「まるっきり住宅地の真ん中やんけ・・・」。まあ、都市化が進む現代のこと、仕方がないと思いましょう。次に感じたのは「全然要害になっとらん!」。いわゆる平山城で、城の東側は一応川と崖になってはいますが、比高もそれほど高くなく、ちょっとした丘程度です。市街地化が進んでいるため、掘割や全体の縄張りなどがどうだったかは詳しくは分かりませんが、少なくとも「要害」という言葉には程遠い印象でした。もしかしたらかつては土師川が城の直下を流れていたのでしょうか。これは想像ですが、その光秀にとって、難攻不落の要害を構えることよりも、領国経営に利便性が高く、また「占領者」としての印象を少しでも和らげるためにも、町に近い平場に城を構えることを優先させたのではないでしょうか。付近を見れば要害になりそうな山はいくらでもあるのに、ここに築城した光秀の心中が察せられるような気がします。そういう意味じゃ、光秀は信長、秀吉と並んで「近世城郭」への扉を開いた一人でもあったのですね。

現在の城は復興天守と石垣のみ、と言ってもいいでしょう。本丸以外の曲輪はことごとく公共施設や市街地になっていて、めぼしい遺構はありません。最大の見所は前述の復興天守と、それを支える石垣。石垣は「転用石」が多用されていて、石仏や墓石、五輪塔などがいたるところに見られます。これほど多くの転用石を使った城を僕は見たことがありません。寺社仏閣や墓、石仏を破却して石を転用するのは信長が二条城安土城築城などで用いた方法ですが、光秀もそれに習ったのでしょうか。ただ、光秀は寺社に対し、「丹波平定が成就したら必ず再建する」ことを約束して石を集めたそうです。どこまでも篤実家な光秀サンです。これから行かれる方は、石垣の石を一個一個、見てみてください。

(※訂正)D-ONEさんからのご指摘で、再建された天守を「総木造で当時の技法で再建」と記載した記事が全く誤りであることがわかりました。実際は鉄筋コンクリート製、昭和六十一年十一月に「郷土資料館」として外観復原されたものです。「復興天守」というよりも「復原天守」と呼ぶ方が正しいかもしれません。何かの記事と混同して初歩的な間違いをしてしまいました。中に入れば間違うことも無かったんでしょうが。。。その前にちょっと調べればわかることですね。。。お詫びして訂正します。

福知山市役所付近、市街地から見上げる福知山城の復興天守。周囲は役所や宅地が建ち並んでいます。 城下を流れる法川から見上げる福知山城。斜面は急ですが要害というほどではありません。

市役所裏手の丘は「伯耆丸公園」。解説板もありましたが風化していて読めません。外曲輪か出城だったのでしょう。ここからは正面に天守を眺めることができます。

福知山市のシンボル、復原天守。連立式の下見板張り天守で、四層五階、地味ながらも光秀の堅実さが伝わってくるようです。中に入れますがこの日は閉館間近だったのでパスしました。

これが転用石の石垣。普通の野面積み石垣に混じって、五輪塔の基部などが見えているのがわかりますか?

これは墓石でしょうか?なにやら文字が刻まれています。

これも五輪搭の一部です。このように転用された石が実にたくさんあり、見ようによっては結構不気味です。 二ノ丸付近の石垣は修復工事中でした。地元の建設会社が穴太積みの技術を駆使して工事に当たっているらしいです。
本丸の大井戸、「豊磐井」(とよのいわい)。城郭用湛水井戸としては日本一の地表下50m、海面下7mにまで達しているそうです。 もともと市役所付近に建っていた銅門番所。現在は本丸天守の前に移築されています。
夕暮れ迫る福知山の街並み。美しい山河に囲まれた盆地の街、光秀が愛した街、山並です。 土師川方面を見下ろす。後で偶然分かったのですが正面左の丘陵は、この地を支配した塩見氏の中世城館、猪崎城です。現在は三段池公園になっていますが、堀などは良好な状態で残っているそうです。気付いたのが夜だったので、見学は断念しました。
上記の猪崎城は、夜景を撮影するために徘徊していた時に偶然見つけました。完全に夜だったので、断腸の思いで見学は断念。またいつか、この地を訪れるときのために取っておきましょう。

 

交通アクセス

JR山陰本線・福知山線、北近畿タンゴ鉄道「福知山」駅徒歩10分。

舞鶴自動車道「福知山」IC車10分。

周辺地情報

見逃してしまった猪崎城が見所多いらしいです。

関連サイト

 

 
参考文献 「明智光秀」(学研「戦国群像シリーズ」)、「風雲信長記」(学研「戦国群像シリーズ」)、「ビッグマンスペシャル 織田信長」(世界文化社)、「歴史読本」各号(新人物往来社)、現地解説板
参考サイト 戦国浪漫

 

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