国府台の敗北に殉じた悲劇の城

秋元城

あきもとじょう Akimoto-Jo

別名:小糸城、狐糸城、青鬼城

千葉県君津市清和市場

城の種別 山城

築城時期

永正五(1508)年

築城者

秋元氏

主要城主

秋元 氏

遺構

曲輪、堀切、土塁、切通し、虎口、井戸等

岩盤を掘削した横堀と畝<<2004年03月13日>>

歴史

もともとは「小屋場」にあった古城を、里見義豊の命で属将の秋元義正が永正五(1508)年に現在の清和市場に移転・築城したといわれる。秋元氏は下野守護職の宇都宮氏の一族の出自と言われる。永禄七(1564)年の第二次国府台合戦で大敗した里見軍は安房に敗走、これを追走した北条氏は、五月に池和田城を、六月には秋元城を陥とし、十月には里見氏本拠の久留里城まで侵攻、これも陥とした。秋元城の当主・義久は負傷し、城下で自刃したといわれるが、落城時期には元亀二(1571)年などもあり定かではない。北条氏は城代として斎藤正房を置いたが、天正十八(1590)年の小田原の役で、浅野長政率いる房総別働隊の襲来に逃亡した。この役で里見氏が関東惣無事令違反を咎められ上総を豊臣秀吉に没収されたため、浅野長政が接収し廃城となった。

歴史のところでも書いたように、城主の秋元氏は第二次国府台合戦で敗退した里見勢の将でしたが、北条勢の追撃を受けて炎上落城し、秋元義久は自刃したとのこと。この合戦では里見氏の一族や重臣の正木氏の一族にも多数の死者が出ていますが、この山間の小さな城の領主にも悲劇が訪れてしまったのです。房総の歴史の、隠れたひとコマです。しかし幸いにして秋元氏は断絶せず、幕末には上野館林城主として廃藩置県を迎えたそうです。

事前情報では、遺構は良く残っているもののブッシュに覆われている、と思っていましたが、行って見ると主要部の下草は綺麗に刈られ、道も整備され、城址の入り口には標柱もありました。あとで知ったのですが、昨年(2001年)夏から、地元有志による保存・復活運動が盛り上がり、発掘調査も行われたとのこと。だからこんなに整備されていたんですね。

城のある山そのものはさして大きくもなく、木に覆われていなければ麓くらいには眺望が利くのでしょうが、鹿野山をはじめ周囲の山の方が高く、物見の機能は弱い城という印象です。

その遺構は実によく残っています。切り通しの城戸を兼ねる堀切や緑泥岩質の岩盤をほぼ垂直に削り取った垂直削崖遺構、削平時に痩せ尾根を削り残して土塁とする技法など、安房・上総に多く見られる城郭の典型的な技法を見ることができます。この垂直削崖は自然の谷と堀切を伴っていてかなりの高さがあり、落ちたらマジで危険です。とくに尾根続きの北側を断ち切る堀切付近は、深く峻険な谷に守られていて、近づくこともできないほど。技法的には原始的で、規模も小さい城ながら、その地形は要害そのものと言えるでしょう。城内主要部である一郭〜三郭と千畳敷(四郭)は「西向三段」と呼ばれる階郭式の3段削平になっていて、この主要部だけは妙にスマートな近世城郭を思わせる縄張になっていて、ここも特徴的なところです。小糸川流域は高度成長期〜バブル期の乱開発で砂取りによって消えた山、ゴルフ場になってしまった山がたくさんあり、その中には恐らく少なからず中世城館遺構もあったはずですが、この秋元城のわずか1kmほどしか離れていない場所にも開発の波が押し寄せており、その魔手を免れてこの素晴らしい遺構群が残ったことは城郭ファンとしては嬉しいことです。

なお、城址見学の帰りに地元の石橋さんというお宅のご主人にたまたまお話を伺うことができ、家までお邪魔させていただいた上、発掘時のお話、地元の伝承(頼朝伝説)、城址周辺の地形に関する情報や、貴重な発掘関連の資料などを頂くことができました。ここに改めて深く御礼申し上げます。今年もまた発掘が行われるかも知れないとのことだったので、今度はぜひ参加させてもらおうかな、と思っています。城址の公園化・復原に向けて地元で盛り上がりを見せつつあり、また周辺の城郭ファンの注目を集めているようですが、ぜひ史跡保護と広く親しまれる公園化のバランスが取れた、素晴らしい公園に仕上がって欲しいと願っています。旅と言うにはあまりに身近な県内の城めぐりながら、地元の方に親切にいろいろ教わるのはやはり旅ならではです。城址整備にかける地元の熱意と愛情がひしひしと伝わってきます。ぜひ発掘・整備を進めて、素晴らしい遺構の数々が広く知られるようになることを楽しみにしています。(第一回目の訪問:2002.02.16)

さて、2004年02月28日、君津市にて「戦国山城フォーラム」が開催されたので行ってきました。500名入る会場はなんと満杯、ソレガシは床に座って聴講しました。内容も興味深かったのですが、とくに滝川恒昭先生による秋元氏の系譜にまつわるお話はシビレました。 その後、秋元城に行ってみたところ、城内はかなり広範囲に伐採・下草刈りが行われていて、所々に遺構の標示も設置されていました。この伐採は主要な曲輪や通路だけでなく、普通だったらヤブが酷くて入る気もしないような谷戸部まで綺麗に刈り払われていて、地形もバッチリわかるという、非常に素晴らしい状態にありました。しかも、一部自然崩落している場所を除けば、ほぼ完存といってもいい状態で、かつ後述するように上総山間部の典型的な山城の要素にプラスして、このお城独特の高度な遺構も見られるなど、一城で二度三度オイシイお城です。もともと秋元城は結構お気に入りだったけど、ソレガシの中ではランク急上昇、赤丸オススメです。(第二回目の訪問:2004.02.28、第三回目の訪問:2004.3.13)

[2004.04.03]

【秋元城の考察】

秋元城は小糸川西岸の清和市場集落の西、鹿野山系の山裾の先端部に築かれている。麓からの比高差は60mほど、城域は400m×300mほどで、決して大規模な城ではない。が、見た目に貧弱そうに見える丘陵は周囲を深い谷と断崖絶壁に囲まれており、背後の鹿野山とは細い痩せ尾根一本で繋がるなど、非常に要害性の高い立地である。わずか比高60mほどの山で城郭を構えるのにこれほどの適地は滅多に無い。 

秋元城鳥瞰図(左)、平面図(右)

※クリックすると拡大します。

城内における主要な曲輪はT曲輪群とU曲輪で、これらは実質的にひとつの曲輪として実城(本丸)域を形勢している。T曲輪群は通称「西向三段」と呼ばれる(実際には4-5段の小曲輪が連続)。この最上段のTaは物見、戦闘指揮所としての意味合いを持つ曲輪であろう。生活・籠城の場としての中核部はU曲輪(「千畳」)にあったものと思われる。Ta曲輪には南側に向けて3mほどの高さの垂直な削り残し土塁がある。この下は10mほどの垂直削崖による絶壁である。 

V、W曲輪は規模は小さいが、物見としてはいい場所にある。V曲輪は城内最高所であり、鹿野山との尾根と、その間の谷を監視する。水の手の監視も兼ねていただろう、ここには尾根の削り残し土塁がある。ここから鹿野山への尾根へは大規模な堀切4、5がある。また、T曲輪群からは土橋状の箇所を通るが、ここも自然の谷戸を加工した堀(堀3)と考えてもいいだろう。W曲輪は大手道の監視の役割を持つだろう。ここは虎口に削り残しの岩盤を用いた食い違いを置いている。物見程度の曲輪でこれほど厳重な虎口は少々珍しい。 谷戸部の曲輪としてはX、Y、Zなどがある。Xは通称「千駄クラ」と呼ばれる。おそらく食料庫であろう。ここは広く伐採が行われているおかげで、曲輪や谷戸、支尾根の谷戸に向かう側に延々と施工された垂直削崖などが明瞭に確認できる。削平そのものは甘く、自然地形に若干の加工を加えた程度である。この谷戸を挟む尾根の上には、馬蹄段状の小曲輪が連続する。 Yは池跡である。見学時には多少湿っている程度であったが、以前来たときは明らかに水が流れていた。鹿野山からの地下湧水が「サイフォンの原理」でこの谷戸に染み出すのだろう。ZはT曲輪群の南側を固めるいくつかの小規模な曲輪群である。 周囲の支尾根は非常に幅が狭く、1m無い場所も多い。しかも両側は垂直削崖と懸崖に囲まれている。この尾根の直下から尾根に取り付くことは不可能に近い。 [曲輪は通称「根古屋」であり、周囲の集落に比べ10mほどの高台になっている。ここには城主の館があったことであろう。数段の段差があるが、後世に農地として転用されたようなので必ずしも旧状通りではない。現在は人柱「おげん」を祀ったと伝承される「青鬼大社」の石柱が建っている。 

大手道は根古屋から千駄クラを経て、虎口「A」へ向かう道、現在の見学路がそれに当たるだろう。ただし、[曲輪へ入る舗装された坂道は後世の改変である。この大手道は途中、切通し状の虎口を数箇所通過する。なかでも堀切1、堀切2は尾根の堀切と切通し虎口(虎口C、D)を兼ねたもので、どちらも非常に規模が大きい。堀切2は一度堀切内を通過した後に主郭虎口「D」の切通しに取り付くという、多少珍しい経路パターンである。 虎口「D」は主郭追手にあたり、周囲には土塁が築かれている。前述のように堀切2を潜り抜け、急坂の切通しを抜けるとこの土塁虎口の中に入る。この土塁囲みの虎口は不完全ながらも原始的な枡形虎口の形態を持っている。この地方の城郭としては珍しく洗練された虎口である。

 特筆すべき遺構としては垂直切岸の多用と、堀6、7、8の横堀が挙げられる。前者はこの秋元城に限らず、里見氏や正木氏、武田氏などの房総諸勢力の城郭に多く見られる構造であるが、秋元城のものも規模が大きい。T、U曲輪の東側などは場所によって10m近い高さがある。これらは東側の支尾根や、大手道脇、千駄クラ脇の支尾根など、規模の大小の違いはあっても至るところに多用されている。 横堀6は「西向三段」の直下である。緩い曲線による三日月状の形状をしており、外側は堀底から3mほどの高さの削り残し土塁が設けられている。ここには切通し虎口「E」があり、曲輪群Zなどと繋がっていたようである。なおこの横堀に障壁があるような記載を時々見かけるが、この横堀にはない。多少崩落によるデコボコがあるが、これは障壁ではないだろう。堀7はU曲輪の南側、やや緩斜面に面したものであるが、非常に規模は小さい。 

最も特徴的な堀8の横堀は鹿野山への尾根の西側の垂直削崖下にある。ここには三本の非常にくっきりとした畝状遺構がある。この畝は岩盤を掘り残したもので、高いところで堀底から2mほどもある。畝の他にも2mほどの垂直な段差が数箇所設けられている。里見氏系城郭でもかなり特異な遺構である。北条系城郭では韮山城の支砦群に同様な遺構が見られるが、もしかしたら国府台の後の、北条による占領時期の改修なのかもしれない。ただし、この堀のうち、北側の一部は明らかに水堀であった形跡がある。里見氏系の山城に、岩盤を掘削した水堀状の遺構が見られる類例は他にもあることから、北条とは全く関係なく、もともとこういった構造であったことも考えられる。この方面には目立った支尾根はなく、城下集落にも面しておらず、しかも周囲は懸崖である。直接的な攻撃に晒される懸念は低い。防御施設としての堀というよりもむしろ、貯水施設であったのではないかと推測する。

 秋元城の直接の支城・出城としては、南に400mほどの台地突端に粟倉砦があった。ここは秋元城の「大手」とされ、途中の谷には橋が掛かっていたというが、ここを直接の大手門とするには距離がありすぎる。一応、城下には「宿」の存在が想定されるが、惣構えと言える程のものはなかっただろう。粟倉砦はこの「宿」の南方を押さえる出城であり、厳密には秋元城とは別個のものと捉えた方がいいだろう。

[2004.04.03]

小糸川対岸から、鹿野山を背後に控えた秋元城。見た目は小城ですが、地形は天嶮そのものでした。南には粟倉砦があります。 北側から見る秋元城。どこから見ても貧弱そうな丘にしか見えないのですが、これがなかなかスゴイお城なのですよ!

昭和三十六年、秋元氏の子孫である秋元順朝氏建立の顕彰碑。登城路そばのバス停付近に建ちます。遠い祖先を慕い敬う美しさに思わず目頭が・・・。 三ノ丸ぶあたる「根古屋」([曲輪)。数段の段差がありますが、後世に農地として転用されていた名残でしょう。

「根古屋」に建つ石碑は、後で地元の方に聞いたところによると「人柱おげん」を祀った青鬼大神(このお城の別名にもなっている)だそうです。もともとは大手口方面にあったものを、昭和の耕地整理で移されたとのことでした。 谷戸部を縄張りに取り込んだZ曲輪「千駄蔵」。千駄蔵とは食料庫のことでしょう。周囲の尾根も周到に垂直削崖が施されています。

大手道の途上にある虎口B。こうした小規模な切通し虎口が数箇所にあります。見学路は綺麗に下草が刈られて歩きやすい。 虎口Bの北側の谷部。図では崩落崖のように描いたものの、岩盤には削崖が施されているようにも見え、堀であったかもしれません。

思わずビックリの巨大堀切1(虎口C)。周囲はほぼ垂直に削崖されています。この堀切は切通し虎口を兼ねています。 千駄蔵より続く谷戸。谷戸まで綺麗に伐採されていて、地形を掴む上では有難いです。なんといってもこのお城は谷戸をうまく縄張りに取り込んでいるのですから!

出丸風のW曲輪へと向かう虎口。削り残し土塁による食い違い虎口となっています。この程度の小曲輪でこれほど厳重な虎口はこの辺りではちょっと珍しい。 そのW曲輪には稲荷社・金毘羅社が祀られています。ここは大手道を頭上から監視する目的の曲輪でしょう。

主郭へのアプローチとなる堀切2から虎口Dへのコース。堀切の断面に切通し虎口が開く、ちょっと珍しい構造。 虎口Dは切通しを上がると、三方を土塁に囲まれた枡形風の空間に出ます。完全な枡形ではないですが、やはりこの地方にはやや珍しい構造といえます。

城内最大の曲輪、通称「千畳」(U曲輪)から見た本丸の「西向三段」はじめは土塁かと思いましたが近づいてみると三段に削平された曲輪でした。 「西向三段」より見る千畳。城内で最も枢要な曲輪とみていいでしょう。ここでは発掘調査も行われています。

西側から見た西向三段。実際には一番下段の「御殿」を含めて5段ほどあります。 主郭であるTa曲輪の山腹斜面側には垂直に切り立つ土塁。掻き揚げではなく、削平時に削り残したものでしょう。この向こう側はほぼ垂直な崖です。

土塁の崩れた箇所から主郭直下の垂直削崖を見下ろす。ここの土塁の崩れのおかげで、下まで降りることができます(急斜面ですが)。 下から見上げる主郭周囲の垂直削崖。高いところで10m、平均5mくらいかな。しかし、テカテカするほど磨き上げられた削崖は人間の力では絶対に登れない。

主郭から見る鹿野山。このお城は鹿野山からは丸見えの位置にありますが、あんまりそれは気にしていないような感じがします。 主郭崖下の見事な横堀6。機能的には尾根を断ち切る堀切、というよりは緩斜面を分断する横堀でしょう。

横堀6の中に開口する虎口E。岩盤の切通し虎口で、一部石積みらしきものもあります。ここはYの曲輪群への通路となるものでしょう。 南側の幅1mもない細尾根から崖を覗く。落ちたらもう、あの世直行便のファーストクラスにすぐ乗れるでしょう(−−)

一応堀切と見た堀3とそこに架かる土橋。ここからは鹿野山に向けての尾根となります。 尾根上に削り残された土塁。この手の削り残し土塁(一部掻き揚げ)としてはかなり規模が大きい。しかし向こうは崖なのになぜここに土塁が?

山城の生命線である井戸。このお城には谷戸を利用した池もあり、水の手には困らなかったかもしれません。 鹿野山への尾根上にある、一段高いV曲輪。尾根伝いの敵を監視迎撃する物見・櫓台と推定。ここにも尾根土塁と、八幡社の小さな祠があります。

尾根をぶった切る巨大堀切4。大きすぎてカメラに入らない。 ロープにつかまりながら撮影した堀8の岩盤畝堀。ここはスゴイ。体を張って見に行こう!

堀8は延長30mほどある岩盤箱堀。畝が三箇所と、大きな段差が数箇所あります。しかし、この方面は敵が来そうもないのに、なぜ? 同じく堀8の畝を反対側から。これって里見氏の技法なの?

と思ったものの、畝に挟まれたこの風呂桶状の横堀を見ると、どうも水堀の一種に見える。里見氏系でよくある、岩盤水堀遺構の一種かな。それとも北条の改修かな。どっちだろ。 堀8の、コの字状段差。段差は現状でも2m以上ある。これはまともに進めない。

堀8はさらに北西に向かって伸びていました。この部分は通路を兼ねているようにも見えるし、一体どういう遺構なんだろう? 堀切5のさらに城外側を断ち切り堀切8。垂直な崖を、こんなロープと腐りかけた木の根っこを伝って降りねばならないのだ。。。

祠から千畳へ、尾根下の湿地帯(「今田」)を進むと、池跡があります。いまでも水を湛えていて、山林火災に備えた水源にもなっているとのことでした。 城址入り口付近の県道から降りた沢。岩をくり抜いて道祖神が祀ってあります。この通称「湯沢」は、頼朝が負傷した部下を入湯させたという頼朝伝説もあります。
秋元城の、南500mほどにある粟倉砦。道路開通により改変され、遺構らしきものはありませんでした。 粟倉砦の曲輪内部。シイタケの栽培地になっていました。
粟倉砦先端の通称「大手口」。ただ、小糸・清和市場集落には惣構えと呼べるものはないようです。 城下の妙喜寺の秋元氏墓所。秋元城の落城の際、秋元義正はこの妙喜寺で自刃したと云われる。

この他、田中沢対岸の山腹には「ミハリ」という地名があり、堀切などがあるらしいですが、行き方がわからず未踏査です。

 

交通アクセス

館山自動車道「君津」ICより車15分。公共交通は不明。

周辺地情報

久留里城がオススメ。久留里城の山麓の売店では地元市議会議員の坂井昭による『戦国武将の時代-中世の上総国の秋元氏について』という素晴らしい本が入手できます。限定出版ですが、ぜひ手にしてみてください。

関連サイト

 

 

参考文献

「戦国武将の時代・中世の上総国の秋元氏について」(坂井 昭)

「図説房総の城郭」(千葉城郭研究会/国書刊行会)

「君津市史」「小糸村史」

「房総の古城址めぐり(上)」( 府馬清/有峰書店新社)

「すべてわかる戦国大名里見氏の歴史」(川名 登/国書刊行会)

新編房総戦国史」(千野原靖方/崙書房)

「国府台合戦を点検する」(千野原靖方/崙書房)

「日本城郭大系」(新人物往来社)

君津市教育委員会資料、「戦国山城フォーラム」配布資料

参考サイト

余湖くんのホームページ

 

 

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