孤が縄張り?

館林城

たてばやしじょう Tatebayashi-Jo

別名:尾曳城

群馬県館林市城町

(館林市役所〜つつじが岡公園付近)

城の種別

平城(水城)

築城時期

享禄三(1530)年 

築城者

赤井照光

主要城主

赤井氏、足利長尾氏、北条氏、榊原氏、徳川氏ほか

遺構

曲輪、土塁、復原土橋門

復原土橋門<<2001年10月07日>>

歴史

築城時期は異説はあるが、享禄三(1530)年、鎌倉以来この地を治めてきた赤井氏の当主、照光により築城を開始され、翌年移り住んだという。

永禄五(1562)年、上杉謙信の関東出陣に際して城主赤井氏は戦うことなく降伏開城し、武蔵忍城に落ちた。謙信支配時は足利城の足利長尾氏が城主を勤め、謙信の関東出陣の際には厩橋(前橋)城と並ぶ駐屯地となった。

足利長尾氏の長尾景長は永禄十二(1569)年に死去、太田金山城の由良氏より養子を迎え顕長と称した。顕長は謙信に属したが、謙信死後は北条氏、武田氏などにたびたび攻められた。天正十三(1585)年に北条氏の謀略で顕長とその兄で太田金山城主・由良国繁が小田原城に監禁され、館林城金山城足利城は北条氏政・氏直は武蔵鉢形城の北条氏邦を総大将に、忍城岩槻城などの軍勢2万に攻められる(金山合戦)。金山城の由良国繁は北条氏に帰服したが、顕長は和議に応ぜず抗戦、天正十六(1588)年に岩井山城に撤退した。

天正十八(1590)年の小田原の役では北条氏規の城代・南条因幡守が守っていたが、石田三成、大谷吉継らの軍勢に囲まれ、和議開城した。徳川時代は榊原康政に与えられ、その後は城主は目まぐるしく変わり、秋元氏の時代に廃藩置県を迎え廃城となった。明治七(1874)年の大火で延焼し、残っていた建物などは灰燼となった。寛文元(1661)年から延宝八(1680)年までは、のちに第五代将軍となる徳川綱吉が在城していたこともある。

初代城主の赤井照光は、ある日傷ついた子狐を助けたところ、夢の中に白狐が現れ、尾を曳いて城の縄張を照光に授けた、という伝承があり、「尾曳城」とも言われております。

戦国史を見ると、謙信の関東駐留地として厩橋城などとともにたびたび登場する館林城ですが、城地は公園や公共施設、市役所などが作られ、また城を囲む沼の水位も干拓によって下がってしまったため、遺構も少なく、かつて沼に囲まれた要害であった館林城の姿を見ることはできません。ただ、この沼は「城沼」として今でも親しまれているため、この付近の地形にわずかに面影を伝えております。また、わずかではあるものの三ノ丸付近に残る土塁はなかなか見事で、土塁フェチであれば満足できるかもしれません。なお、僕は見ていませんが、惣構えの土塁などもあるそうです。

館林城の最大の要害、城沼。かつては城の三方を囲む沼でした。 三ノ丸周囲に残る土塁。高さは5mほどで、しっかり横矢も掛かっています。なかなか見事です。

城址の標柱と三ノ丸土橋門を裏側から。 本丸櫓台の土塁。本丸は広い芝生公園に。土塁は一部石垣で固められていますが、遺構ではないでしょう。

八幡曲輪跡に祀られた八幡宮。築城時に赤井照光によって勧進されたと言われている。この周囲には縄文時代のムラなども復元されています。 市役所付近の道端にあった「千貫門跡」の碑。

ここも歴史にはたびたび登場しますが、やはり平城の悲しさ、都市化に呑まれて遺構はごくわずかです。城沼を眺めながら、在りし日の姿を偲ぶしかなさそうですね。

 

 

交通アクセス

東北自動車道「館林」ICより車15分

東武鉄道「館林駅」徒歩10分

周辺地情報

太田金山城が超オススメです。

関連サイト

 

 
参考文献 「日本城郭大系」(新人物往来社)、「上杉謙信・戦国最強武将破竹の戦略」(学研「戦国群像シリーズ」)、「上杉謙信」(学研「戦国群像シリーズ」)、 「関東三国志」(学研「戦国群像シリーズ」)、「戦国関東名将列伝」(島遼伍/随想舎)、現地解説板

参考サイト

からっ風倶楽部群馬の城郭

 

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