戦乱を逞しく生き残った堅城

金山城

かなやまじょう Kanayama-Jo

別名:太田金山城

群馬県太田市金山町

(新田神社)

城の種別

中世山城

築城時期

文明元(1469)年

築城者

岩松家純

主要城主

岩松氏、由良(横瀬)氏

遺構

曲輪、土塁、石垣、虎口、井戸

復原された総石垣の大手道<<2001年10月07日>>

歴史

鎌倉時代末期に新田義貞が砦として整備したといわれるが、発掘調査や古文書での裏づけはない。新田氏の一族、岩松家純は関東管領上杉氏の与し、寛正二(1461)年、同族で古河公方足利成氏に与していた岩松持国を滅ぼし、二派に分流していた岩松氏の系統を統一し、文明元(1469)年、重臣の横瀬国繁に命じ、世良田長楽寺の僧、松陰軒西堂の縄張りで築城させた。岩松氏は上杉氏と古河公方への帰趨を巡って内紛が勃発し、明応四(1495)年、横瀬国繁・成繁父子はそれに付け入って実権を奪った(明応の乱)。その後、享禄元(1528)年に横瀬氏の横暴に対抗した岩松昌純は横瀬氏打倒を計画したが事前に漏れ、横瀬泰繁・横瀬(のち由良氏)成繁によって殺害され、金山城は名実ともに横瀬氏の支配下に入った(享禄の乱)。 

独立領主化した。戦国期は関東管領上杉氏に従い北条氏と対峙したが、天文十五(1546)年の河越夜戦の敗北と、天文二十一(1552)年の平井城落城、上杉憲政の越後落去ののちは、一時期北条氏の傘下に入った。永禄三(1560)年に長尾景虎(上杉謙信)が関東に進出すると上杉氏に従った。横瀬成繁は永禄八(1565)年頃には「由良」と改姓した。この年、成繁は上野に侵攻した武田信玄、北条氏政らと戦い、翌永禄九(1566)年には上杉氏から離反し北条に奔った。永禄十一年(1568)の武田信玄による駿河侵攻で甲相駿三国同盟が崩れると、由良成繁は小田原城の北条氏康・氏政父子と越後春日山城の上杉謙信の間を取り持ち、相越和睦に尽力している。

北条氏康の死後、相越同盟が破棄されると、天正二(1574)年には五度に渡り上杉謙信の攻撃を受けたが、持ちこたえている。このころ、永禄十二(1569)年七月には由良成繁の三男・顕長が、足利長尾氏の養子に入り両崖山城館林城の城主となり、天正元(1573)年三月には桐生城内の内紛につけ込んで、下野唐沢山城の佐野氏から桐生城に養子入りした佐野重綱を唐沢山城に追い、これを攻略するなど、両毛に勢力を拡げている。天正六(1578)年、成繁は隠居して桐生城に移り、国繁が跡を継いだ。

上杉謙信の死により御館の乱が勃発した際、上杉景勝に味方した武田勝頼は、景勝との盟約により東上野を領有し、由良氏と金山城は一時武田氏の配下に入ったが、天正十(1582)年の武田氏の滅亡により、厩橋城に入った織田氏武将の滝川一益の支配化に入った。しかし同年の本能寺の変で滝川一益も厩橋城を放棄し、その後は北条氏の北関東侵攻が本格化した。

天正十二(1584)年元日、唐沢山城の佐野宗綱が由良国繁・長尾顕長領を襲ったが、須花坂で狙撃され即死した(須花坂合戦)。その戦勝報告のため、重臣の久米伊賀守、横瀬勘九郎を小田原城に派遣した。北条氏政は奇計により、戦勝祝いと以後の軍法配立の相談をしたいと由良国繁・長尾顕長兄弟の小田原同行を求めた。ふたりが小田原城に到着するとまもなく、難癖をつけて幽閉、同行の一同を金山城に返された。金山城に残った横瀬勘九郎ら家臣は国繁・顕長の変換を要求したが、氏政は弟の北条氏邦・氏照ほか3500騎で金山城館林城を包囲、同年、城下の金龍寺、足利長林寺住職らの仲介により和議が成立し、由良国繁は金山城を退去し桐生城に隠居し、金山城には北条氏直轄の清水太郎左衛門正次らが在番した(金山合戦)。天正十八(1590)年の小田原の役では国繁・顕長は小田原城に籠城、金山城へは前田利家らが攻撃を加え落城、廃城となった。なお由良氏は、国繁の母・妙印尼が秀吉本営に嫡孫貞繁、次男矢場繁勝、四男渡瀬繁詮を差し出した上で豊臣家に二心なきことを説得、改易を免れ、由良国繁は常陸牛久五千石、渡瀬繁詮は遠江横須賀城三万五千石に任じられた。

城主の横瀬(由良)氏は全国的には有名ではないと思いますが、しっかりと下克上で主家を滅ぼし、大国の狭間で昨日は上杉、今日は北条に与するなど、典型的な戦国大名の道を歩んでいます。戦乱の中でしっかりと領土も拡張し、上野・下野にまたがって勢力を張りましたが、結局は北条氏に併呑され、おなじみ小田原の役を迎えます。普通ならここで滅亡か改易となるところですが、「賢母」の働きで家名存続に成功します。なかなか立ち回りの上手な一族だったようです。謙信の最後の関東出陣となった天正二年には、謙信もムキになって攻め立てましたが結局落城せず、堅城ぶりを天下に示しました。謙信はこれでイヤになって、というわけではないでしょうが、二度と関東に出陣することはなく、矛先を北陸から畿内に向けて転進します。ま、唐沢山城の佐野氏とか、結城氏とか、この金山城の由良氏とか、北関東の諸将は家名存続のためとはいえ反覆極まりない連中なので、最後のこの金山城攻めでいいかげん関東に首を突っ込むことがアホらしくなったのかもしれません。早く気付けば天下獲れたのに。。。

城はなだらかな関東平野に突然突き出した標高223mの独立峰です。史跡公園として整備しているのはいろいろ調べて知っていたけれど、いや、これほどの規模で整備復元されているとは、正直驚きました。とりわけ、関東の中世山城では総石垣の城はない、という定説を覆す大石塁は、ものすごい迫力があります。唐沢山城と並んで、関東屈指の石垣の城、です。この復元された石垣、非常に特徴的で、他の城郭で見られるような扇の勾配や気負いなどが殆ど無く、平面的な石を垂直に積み上げた石垣が幾重にも重なっている姿は、ある意味で日本の城郭っぽくない姿です。この城のシンボルであるふたつの円形の池(日の池、月の池)の石敷きなども、城、というよりは何かの舞台、あるいは神殿などを彷彿とさせます。ローマとかメソポタミアの遺跡みたいな雰囲気です。日本の城で一番雰囲気が近いのは安土城の大手道でしょうか。そういう意味では、よく言われるような「典型的な中世山城」ではない気がします。解説にもあるとおり、中世山城と朝鮮式山城(神籠石式山城)の融合、と捕らえたほうが自然でしょう。
ちょっと復原された石垣が鮮やか過ぎて、いまひとつ僕のイメージの中の中世城郭と結びつかなかったのですが、その壮大な復元石塁が目立つ中、誰も気づかないような場所で静かに苔生して横たわる石垣を見つけたときの感慨はひとしおでした(※注)。やはり、石垣は古びて苔生しているのが似合います。
今回は山頂付近の見学がメインでしたが、遺構は山麓まで散在しているようです。もう一度じっくり観察したいお城の一つです。

 

(※注)その後、読者の方からの情報で、この石垣は昭和に入ってから、失業者対策のために「崩落防止」の名目で作られた、真っ赤なニセモノだったことが判明。苦労して崖下降りて写真撮ったのに!悔しいけれど訂正しておきます。紛らわしいモン、作るな〜!

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交通アクセス

北関東自動車道「伊勢崎」ICより車30分

東武伊勢崎線「太田」駅徒歩60分

周辺地情報

となり街の館林城、足利市方面なら足利氏館(鑁阿寺)、両崖山城など。まだ見ていないが桐生城などもいいらしい。

関連サイト

 

 
参考文献 「上杉謙信・戦国最強武将破竹の戦略」(学研「戦国群像シリーズ」)、「上杉謙信」(学研「戦国群像シリーズ」)、「関東三国志」(学研「戦国群像シリーズ」)、「戦国関東名将列伝」(島遼伍/随想舎)、現地配布資料、現地解説板

参考サイト

群馬の城郭からっ風倶楽部金山城倶楽部

 

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