>栃木県

 

関八州を眼下に見渡す名城

唐沢山城

                                                  

からさわやまじょう Karasawayama-Jo

別名:根古屋城、橡木城

本丸高石垣

<<2001年12月15日>> 

所在地

栃木県佐野市富士町

埋もれた古城マップ:栃木編

交通アクセス

北関東自動車道「佐野田沼」IC車10分、東北自動車道「佐野藤岡」IC車20分。

東武佐野線「田沼」駅徒歩60分。

行き方・注意点

唐沢山県立自然公園・唐沢山神社を目指す。山上の駐車場から徒歩数分で主要城域に入る。本丸は神社社殿で立ち入りの制限がある。B主要部は神社や公園として整備。城域は広大で全部見るのはかなり時間がかかる。

【基本情報】

築城年 延長五(927)年  主要遺構 曲輪、土塁、石垣、堀切、井戸 等
築城者 藤原秀郷、佐野氏 標/比/歩 標241/比190/歩30.
主要城主 佐野氏、上杉氏城代 現況 神社、山林

【歴史】

平将門の乱鎮圧に活躍した藤原秀郷の居城といわれる。子孫の佐野氏が歴代居住した。永禄四(1561)年二月、佐野昌綱は上杉謙信の関東出陣に際し上杉方に着くが、北条氏政3万5千に包囲される。謙信は上野平井城から救援に向かい、重囲の中甲冑すらつけずにわずか40数騎の供を引き連れて敵前入城し危機を救う。北条方の兵は「これぞ毘沙門の化身なるべし」と恐れ、氏政は兵を退いた。

しかし佐野昌綱は翌永禄五(1562)年以降たびたび北条氏康に内通し謙信に叛旗を翻し、その都度攻められては降伏を繰り返した。永禄七(1564)年には越後平林城主の色部勝長が城代を勤めている。

慶長七(1602)年、佐野信吉のときに春日岡城(佐野城)に築城を開始、慶長十二(1607)年に居城を移し廃城となった。一説には、この年の江戸大火の際、信吉は江戸城に早馬で見舞いを出したところ、「江戸を俯瞰するとは怪しからん」と廃城を命じられた、とか、「幕府の山城禁止令に違反したのを咎められ」廃城となった、といわれる。

【雑感】

都心部から約80km離れていますが、池袋や新宿の高層ビル街が肉眼でもはっきり見えました。ちょっと驚きです。「関八州を見渡す」は大袈裟かもしれませんが、北関東の山塊の最南端に位置するこの場所からは、相当な眺望が得られたことは事実です。

やはり唐沢山城をめぐる攻防で有名なのは上杉謙信と佐野昌綱の十数回にも及ぶ攻防でしょう。この佐野昌綱という男、どういう了見なのか、何度も何度も叛いては降伏を繰り返し、一度は謙信に成敗されかけました。まったく懲りない男だったようです。この昌綱の時期は北条氏の領土が最も拡大していた時期と重なり、この唐沢山城は関東でも屈指の重要軍事拠点として、上杉VS北条が激しく争奪を繰り広げた場所で、在地土豪の佐野氏としては生き残りのために苦悩した結果なのでしょうが、それにしてもまあ、癇癪持ちの謙信公によく成敗されずに済んだものだ、という気はします。

さて、この城は慶長期に廃城となり、現在の佐野駅の真ん前の佐野城(春日岡城)に居城を移すわけですが、「江戸俯瞰と山城禁止令」については事実はどうなのでしょうか?江戸俯瞰の地として廃城になった場所には下総国府台城などがあり、また八王子城なども江戸期を通じて禁制地だったことから、意外と事実に近いのでは?という気がします。ただ、幕府創生期に「山城禁止令」なるものが発布されていたかどうかは大いに疑問で、その後の「元和の武家諸法度・一国一城令」あたりと話がごちゃまぜになっているのではないでしょうか?ちなみに佐野氏は慶長十九(1614)年年に改易されるのですが、当主佐野信吉は秀吉の家臣、富田知信の子、信種が養子として佐野家を継いだ人物でした。この年は大坂冬ノ陣の年、家康がいよいよ本格的に豊臣つぶしに腰を上げた時期でもあります。で、推測なのですが、豊臣系の大名(家康にとっての外様大名)である佐野氏に対する家康の「外様つぶし」の一貫だったのでは?と思うわけです。その正当化のための言い訳が「江戸俯瞰」とか「山城禁止」とかのエピソードに転嫁されているような気がします。

肝心の遺構ですが、素晴らしくよく残っております。関東には珍しいほどの高石垣や、東西に伸びる尾根をこれでもか、というほどに断ち切っている堀切など、見所満点です。おすすめは「南城」周囲のいかにも古色蒼然とした石垣。南城館が建っている曲輪の下側に下りて見てみてください。

遺構、見所の多さとその状態の良さは紹介するのに困るほど。まずは堅固な石垣の枡形虎口が迎えてくれます。 枡形の横にある天然の奇岩、「天狗岩」。ここには物見がありました。

天狗岩からの絶景。まさに関八州を見渡す天下の名城の面目躍如といったところ。しかし風が強くて寒かった・・・ その天狗岩から、はるかに池袋、新宿の高層ビル群を見る(10倍ズーム)。80km以上離れているのに、肉眼でもはっきりと。たしかに江戸の大火も見えたでしょう。

築城の際に厳島大明神に祈請しその霊夢により掘ったところ、水が湧き出たと言う「大炊の井」。深さ9m、直径8mもの大きな井戸で、今でも満々と水を湛えています。 唐沢山城は堀切が多い。その中でも最大の「四ツ目堀」と神橋。尾根を断ち切るだけの堀切、と言うよりは、中核部である三ノ丸以上の曲輪と外曲輪を隔てる横堀の意味も兼ね、防御上の最大の重要箇所と思われます。

「避来矢山」にある根古屋神社。この一段下は組屋敷と言われる曲輪で、家臣屋敷と、四ツ目堀を背後から守る外城の役割を持っていたのでしょう。 三ノ丸。ここからが城内の主要部になります。

三ノ丸腰曲輪に見られる土塁。関東には珍しい、高石垣主体の防備の山城ですが、部分的に土塁も見られます。 草に覆われてわずかに顔を出す、三ノ丸虎口付近の古風な石垣。

本丸南の外城にあたる「南城曲輪」、南城館が建つ。明治二十七年に当時皇太子であった大正天皇が行啓されたとのことです。ここも非常に眺望が利きます。 南城の高石垣。本丸周辺の高石垣もいいのですが、誰もいない場所で、古色蒼然とした石垣を見上げるのもいいものです。

同じく南城の石垣。荒々しい野面積みが、観光用のお城ではない「本物」を感じさせてくれます。この写真の足もとには横堀が走っています。 二ノ丸の虎口石垣。虎口は二ヶ所ありますがどちらも枡形を伴わない平入り虎口です。が、後世の唐沢山神社造営時に改変されているかもしれません。

二ノ丸は武者走り状の石垣に囲まれています。石段なども残っていました。 二ノ丸帯曲輪にあたる「武者溜り」。三ノ丸腰曲輪と同じく土塁に囲まれています。部分的に土塁が切れており、出撃用の虎口があったのかもしれません。
本丸の東にある車井戸。山城にとっては生命線である貴重な水の手です。 車井戸から本丸を見上げると、三段の石垣が見えます。急斜面を攀じ登って撮影。
同じく本丸石垣。三段の石垣は小規模な枡形を形成しています。 その石垣を登ると、やはり予想通り虎口でした。本丸搦手と推定。しかし、うっかり唐沢山神社の敷地に入ってしまって、慌ててまた急斜面を降りる羽目に。
本丸後に鎮座する唐沢山神社。祀神は築城者で初代城主の藤原秀郷です。 本丸の石段下、腰曲輪のような「引局」曲輪の石垣。女房・女中衆の住居だった。
やはり目立つのは本丸の高石垣。「焼米」付近から見上げる。関東にも石垣を伴う城は意外と沢山ありますが、中世山城でここまで規模の大きい高石垣はあまり類を見ません。 二ノ丸付近から見た「桜馬場」と「三ツ目堀」竪堀。馬場は二ノ丸を取り囲むような帯曲輪状の曲輪です。竪堀はさらに斜面の下へ続いています。写真の難しい竪堀ですが、ここは鮮明に見ることができます。
「北城」にかけては小規模な曲輪と尾根を断ち切った堀切が連続します。これは「長門丸(お花畑)」とロッヂの建つ「金の丸」を隔てる堀切で、現在は道路になっています。 「御姫御殿」の曲輪には「唐沢青年の家」が建つ。この撮影ポイント付近も堀切です。
青年の家裏の堀切。ゴミ焼却炉などもあって、あんまり見栄えはよくありませんでしたが、規模は大きいです。 キャンプ場になっている「北城」と、その北東の尾根を断ち切る堀切。浅くはなっていますが二重堀になっています。このあたりが唐沢山城の城域のはずれになりそうです。

再び駐車場のある枡形に戻り、レストハウス下の大手門跡方面に降りる。道路を挟んだ反対側の「鏡岩」。謙信の城攻めの際に西日を浴びて輝き、攻城軍の目をくらませたと言う。

鏡岩方面から見た唐沢山城主要部。岩山なので石垣の石材には困らなかったかも。この写真は絶壁の上からで、風が強くて体が煽られ、久々に緊張しました。。。

小説や歴史関係の本に度々登場する名城ですが、いや〜聞きしに勝る堅城ぶりですね!山城としての規模も大きく、関東有数の戦国後期の本格山城と言えるでしょう。頂上付近まで車で行けるし、景色も最高だし、何より遺構の数々が素晴らしい。名城の名城たる所以をまざまざと見せつけられました。

訪城記録

(1)2001/12/15

(2)2005/07/23

(3)2010/06/05 

参考サイト

栃木県の中世城郭 

参考文献

「日本城郭大系」(新人物往来社)

「戦国時代の終焉」(齋藤 慎一/中公新書)

「戦国関東名将列伝」(島遼伍/随想舎)

「上杉謙信・戦国最強武将破竹の戦略」(学研「戦国群像シリーズ」)

「上杉謙信」(学研「戦国群像シリーズ」)

「日本の城 ポケット図鑑」(西ヶ谷恭弘/主婦の友社)

現地配布資料、現地解説板

推奨図書
       

     

戦国時代の終焉 - 「北条の夢」と秀吉の天下統一 (中公新書(1809))   

北関東における北条氏VS反北条氏の対陣となった「沼尻の合戦」を中心に、「小田原の役」までの関東と中央政局の動きを描く。佐野氏の動向も大きく取りあげられている。

周辺地情報

佐野駅前に「城山公園」として残る佐野城が行きやすい。

埋もれた古城 表紙 上へ