流浪の金田氏、父祖伝来の地に還る

勝見城

かつみじょう Katsumi-Jo

別名:

千葉県長生郡睦沢町寺崎

 

城の種別

平山城

築城時期

不明(平安末期?)  

築城者

金田頼次

主要城主

金田氏、千葉氏、大泉氏、庁南武田氏

遺構

曲輪、土塁、堀切、削崖

埴生川から望む勝見城<<2002年09月15日>>

歴史

築城時期は不明だが、鎌倉幕府創立に大きな役割を果たした高藤山城主・上総権介広常の弟で金田郷を支配した金田小太夫頼次の居城と伝わる。治承四(1180)年の源頼朝の挙兵の際は、金田頼次は伊豆蛭ヶ小島の頼朝配所に居り、千葉胤頼とともに当初より挙兵に加わり、三浦大介義明の居城、衣笠城の籠城に合流した。しかし衣笠城は畠山重忠らによって陥ち、頼朝も石橋山合戦で敗れ安房に逃れた。この時に頼次も衣笠城を落ち勝見城に帰ったと見られる。寿永二(1183)年十二月、梶原景時の讒訴により兄の上総広常が謀殺されたとき、頼次も蟄居を命ぜられ病死した、あるいは広常と一緒に殺されたといわれる。

その後、広常の無実が証明されると、金田郷はふたたび頼次の嫡子、康常に安堵されたが、その子盛常の代の宝治元(1247)年、鎌倉幕府執権・北条時頼が三浦一族を滅ぼした「宝治合戦」が勃発し、金田氏も巻き添えとなり金田郷を没収され、勝見城は宗家の千葉氏の所領となった。盛次の子、胤泰は叔父の千葉胤定の跡を継ぎ、下総鏑木郷に移り住んで鏑木氏を称した。鏑木氏三代の鏑木家胤の弟、常泰は上総蕪木城を築き、金田氏は下総鏑木氏と上総蕪木氏の二家に分かれた。蕪木氏八代常信は千葉宗家に属して安西氏や里見氏との抗争に軍功があり、金田郷の旧領へ復帰がかなったが、勝見城を居城としたかどうかは明らかではない。

戦国期には庁南城の武田氏の配下に入っていたと考えられ、大泉伊賀守らが在城した。天正十八(1590)年の小田原の役では大泉氏または庁南武田氏の一族が居たと思われるが、戦闘があったかどうかは不明。北条氏の滅亡、庁南武田氏の没落とともに廃城となった。

低地と丘陵が複雑に交錯する長生郡の中にあって、ひときわ高い標高60mほどの丘陵に勝見城は築かれています。現在は「睦沢町やすらぎの森」として整備されており、さほど険しい道も無く、見学しやすい城址になっています。

初代城主と目される金田氏は、房総桓武平氏の頭領であった上総広常の弟という、最高の出自を持っていましたが、広常の謀殺や宝治合戦に巻き込まれ、千葉氏の庇護下で下総鏑木氏、上総蕪木氏としてその血脈を保っていました。そうして戦国期にようやく旧領の金田郷復帰を果たすのです。復帰したのがいつごろであるか詳しいことはわかりませんが、里見氏との抗争の軍功で、ということらしいので、大永年間から享禄・天文年間ごろでしょうか。いずれにしても約200年にわたる流浪の末、ようやく父祖伝来の地にたどり着いた感慨はいかばかりだったでしょうか。もっとも、この復帰した居城はこの勝見城とは断定できないようですが。

戦国期には庁南武田氏の配下で、西の池和田城とともに庁南城の一宮方面への進出拠点となっていたようです。そのためか、庁南城にも相通じる築城手法が随所に見られます。しかし庁南城よりもむしろ遺構ははっきりしており、よく整備された歩道とも相まって見学しやすい、見ごたえのある城でえあると言えます。

「図説・房総の城郭(千葉城郭研究会)」で小高春雄氏が述べられているように、長生郡の丘陵地帯は痩せ尾根地形が多く、山上に大きな空間が作れないため、複雑な支峰に守られた谷津を積極的に城域に取り込む、独特の築城様式が見られます。この谷津は「七井戸郭」「小屋ノ谷」「沖小屋谷」などといわれ、家臣団の屋敷や一族の居館などがあったものと思われます。「小屋ノ谷」には現在、湿性植物園がありますが、もともと低湿地で、この屋敷群の前面の水堀として機能していたかもしれません。歓喜寺の裏手、城主居館と推定される観音曲輪は尾根上で唯一広大な空間があり、ここは現在、展望台を伴う広場として整備されています。痩せ尾根上尾根上には小規模な曲輪や堀切が連続し、ところどころ削崖によってさらに傾斜を急にされています。とくに妙見碑のある曲輪の南は二重の堀切と高い削崖が見られ、なかなか迫力があります。ここには木橋と吊り橋がかかっており、ちょっとした山登り気分が味わえます。

全体に遺構の残存度も良好だし、案内表示や解説板設置なども含め整備も行き届いていて、印象の良い場所でした。

城下の歓喜寺。もともと茂原にあったものが、長享二(1487)年、土気城主酒井定隆の七里法華の改革で移転してきたもの。江戸期に徳川将軍家から朱印状を受けており、本堂の屋根には葵紋があります。山門は享保十三(1728)年のもの。ここから勝見城にアプローチでき、「勝見城址」の標柱もあります。 今回は歓喜寺からのルートは採らず、北端の東福寺跡(現在は「やすらぎ広場」になっている)付近から尾根道を歩くことに。登り口に「玄知の横穴墓」なるものがあります。いつの時代のものかは解説板が風化していて読み取れませんでした。

尾根上には小さな曲輪が散在します。写真は土塁?と思われるもの。ここに土塁、というのも不自然なのですが、虎口を狭めるためのものでしょうか?

小さな祠がふたつ祀られている小曲輪。このあたりから南の尾根筋が主要な城域に当たります。

赤い橋がかかる大堀切。この写真の右(南側)は急な崖になっていて、写真で見る以上の規模があります。この城は散策路がきちんと整備されているのがイイですね。

大堀切上の物見と思われる曲輪。堀切伝いに北から来る敵を迎撃するための施設でしょう。

城内最高点、標高61mにある北辰妙見碑。金田氏の後、この地を所領した千葉氏の支配を物語るものでしょう。

妙見碑そばにある解説板。縄張りも記載されています。全体に各所に解説や案内表示があって、見学者に親切なお城です。

妙見曲輪の南側の細尾根を断ち切る二重の堀切と、そこに架かる木橋と吊り橋。東側は特に削り落とされた削崖の急斜面なので、結構スリルがあります。

削崖を下から。細尾根と削崖のセットは庁南城などでも見られる特徴です。

西に伸びる尾根上には、尾根を削り残した土塁が続きます。これも上総や安房の城郭ではよく見られる手法です。

三方を尾根に囲まれた谷津「小屋ノ谷」の池。湿性植物園になっています。この深く入り込んだ谷津も城域として取り入れられていたようです。

小屋ノ谷のさらに奥の「沖小屋谷」。「沖」とは「奥」のことでしょうか。周囲の尾根を天然の土塁に見立て、谷津を曲輪として利用する庁南武田氏独特の築城コンセプトが見えます。 尾根の東、歓喜寺方面に突出する平場が観音曲輪。観音像が祀られており、「観音広場」として整備されています。
観音曲輪は城内でもっとも広い曲輪で、城主の館と比定されています。ここには現在展望台があり、長生の丘陵地帯を見晴らすことができます。 その展望台から。一宮川と埴生川の合流点を見下ろす場所にあり、絶景とはいえないまでも長生の丘陵地帯を見晴らします。金田頼次の兄、上総権介平広常の居城といわれる高藤山城なども見えるそうですが、場所がわかりませんでした。
技巧面で驚くべき点はあまりありませんが、きちんと整備されている上、遺構も明瞭で全体によく残っており、個人的にはオススメの一城です。

 

 

交通アクセス

千葉東金道路「東金」ICから車30分。

JR外房線「茂原」駅よりバス。

周辺地情報

遺構はあまりないが一宮城、見た目の遺構がわかりにくいが庁南城、場所がイマイチわからない高藤山城など。

関連サイト

 

 
参考文献 「長生の城」(小高春雄)、「図説房総の城郭」(千葉城郭研究会/国書刊行会)、「房総の古城址めぐり(上)」( 府馬清/有峰書店新社)

参考サイト

余湖くんのホームページ千葉氏の一族

 

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