悲劇の姫が眠る丘

南条城

なんじょうじょう Nanjou-Jo

別名:烏山城

千葉県館山市南条

(八幡神社裏手)

 

城の種別 平山城

築城時期

不明

築城者

烏山氏

主要城主

烏山氏、正木(里見)氏

遺構

曲輪、堀切、竪堀、土塁

南条城主郭附近の堀切<<2003年10月11日>>

歴史

築城時期等は不明だが、烏山時明・時正・時貞の三代が居住したという。烏山弾正左衛門時貞の息女は里見義豊の正室であったが、天文三(1534)年四月、里見義豊が従兄弟の義堯に稲村城で滅ぼされた際に実家の南条城に逃れ、さらに東方の山中で自害したという。また烏山時貞も稲村城で討ち死にし、南条城は一時廃城となった。

天正九(1581)年に大多喜城主・正木憲時を滅ぼした里見義頼は、次男の弥九郎時堯に正木氏を嗣がせ、二代目の時茂(大膳亮)を名乗らせ、南条城を改修させて住まわせたという。

「天文の内乱」で滅んだ里見義豊の正妻・一渓院は南条城主・烏山弾正左衛門時貞の息女であり、乱の当時、この妻はまだ十六歳だったそうです。里見義豊が犬掛の合戦、そして稲村城をめぐる最後の攻防で敗れ、敗死したと知ったこの妻は、泣きながら自害を遂げたということです。なんとも痛ましいお話です。里見義豊にほこのほかに二人の側室がいたといい、中里備中守の息女は稲村城で自害し、身籠っていた小倉民部定光の息女は義豊の命で山深い五十蔵集落(和田町)に逃れ、そこで一子を産んだ後に亡くなったそうです。いくさというものが、男の闘いであるだけでなく、女たちにとってもまぎれもなく闘いであり、敗者の女には悲劇的な最期が待っている、そんなことを思うと、なんとも胸が痛くなる気がします。

この烏山氏の息女の乳母がのちに出家し、寺を建立して一渓寺と名づけて、この悲劇のヒロインの菩提を弔ったということで、寺はもう廃寺になりましたが、南条城の裏手には「姫塚」という墓があるということでした。

南条城そのものは南条集落の八幡神社背後の丘の上にあり、のちの館山城からは指呼の間に距離にあり、里見義頼が「正木憲時の乱」を鎮定して大多喜正木領を併呑したのちに、里見義頼の次男の弥九郎時堯に与えられたということです。その後、大戦中に海軍の施設が設けられたそうで、八幡神社附近から主郭(コンクリの建物跡がある)まで、改変も少なくないということでした。

居住性のある曲輪としてはこの主郭のみと言っていいのですが、尾根の下には多くの腰曲輪が見られ、一部竪堀や横堀状遺構などが見られることからも、戦国後期にかけて使われていたことを裏付けるようです。

さて、今回ソレガシはどうしても「姫塚」に行きたくて、地元の人に道を聞きつつ山林の中を突き進みましたが、元は田んぼだったというその場所は想像以上に藪化していて、密生する小竹の藪にはばまれ、とうとう到達を断念してしまいました。こんな体たらくじゃ「ヤブレンジャー」失格というところですが、悲劇の姫は誰にも邪魔されずに、静かに眠りたかったのかも知れません・・・。代わりに、というわけでもないですが、隣の古茂口集落の福生寺にあるこの姫のお墓に参詣しました。いずれ、機会があったらもう一度「姫塚」にチャレンジしてみたいところです。

比高40mほどの小丘陵である南条城。城主の烏山氏はこの地の在地土豪だったのでしょう。三代時貞の息女は里見義豊正室となりましたが、そのため悲劇の渦中に巻き込まれることに・・・。 館山城は1.5kmほどしか離れておらず、城下からは城山と山上の模擬天守がよく見えます。
集落の中にある八幡神社が登り口。この日はお祭りであったらしく、山車が出て子供たちが集まっていました。 神社附近は居館にするのに丁度よさそうですが、地元の方によると大戦中に海軍施設が作られたこともあり、かなり地形は改変されていると見られます。
八幡社の周囲には大小さまざまなヤグラがびっしりとあって迫力があります。 尾根に上がると、切通しの通路がありました。しかし城郭遺構なのか、海軍による改変なのかは判断できません。
細い尾根を両側かわせばめる竪堀。竪堀に挟まれた部分は土橋になっていました。こうした構造は里見氏系の城郭の中でもかなり後期のものです。 二番目の堀切は堀切というよりも片側切岸遺構とでも呼ぶべきもの。同様な構造は江見根古屋城里見番所などで見られます。
主郭手前の堀切。断面は垂直に近い削崖になっています。 主郭周囲には沢山の腰曲輪が確認できます。
主郭。コンクリの大きな建物跡がありますが、海軍の給水施設だったとのこと(地元の方談)です。 そういうわけでかなり改変されているんでしょう。一部土塁のようなものがありましたがこれも遺構なのかどうなのか。
主郭の下には横堀状の遺構(通路かも)もあります。いずれにしても、戦国後期の技法が使われているのは間違いないと思われます。 「首洗いの井戸」と呼ばれる井戸。岩盤を掘削し、石で囲ったもの。金山城で発見した井戸とほぼ同様な構造でした。
「何条の姫塚」は山の裏手、この山林の奥らしいのですが、藪に撃退されてしまった・・・。姫、いつか逢いにいきますから、そのときはどうぞご加護を・・・。 隣の集落、古茂口にある福生寺の、姫の墓と伝えられる五輪塔。十六歳を一期に散った薄幸の女性を想う。

 

 

交通アクセス

館山自動車道「木更津南」ICより車90分。

JR内房線「館山」駅徒歩30分。

周辺地情報

館山城が至近距離。稲村城も押えておきたい。ここまで来たらついでに白浜城も。

関連サイト

 

 
参考文献等

「すべてわかる戦国大名里見氏の歴史」 ( 川名 登 編/図書刊行会)

「さとみ物語」(館山市立博物館)

「房総の古城址めぐり(上)」( 府馬清/有峰書店新社)

「日本城郭大系」(新人物往来社)

参考サイト

余湖くんのホームページ

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