安房東岸に聳える謎の大城郭

江見根古屋城

えみねごやじょう Emi-Negoya-Jo

別名:

千葉県鴨川市江見

城の種別 山城

築城時期

不明(戦国後期?)

築城者

不明(正木氏?)

主要城主

不明(正木氏関連?)

遺構

曲輪、堀切、竪堀、切岸、石積み等

江見根古屋城の石塁<<2003年03月15日>>

歴史

歴史的には一切不明。昭和六十二(1987)年に実施された「千葉県埋蔵文化財調査」の際に、根古屋・軍田という地名から松本勝氏が調査発見した城郭である。城主や築城に関する伝承は全くないというが、「軍田」にはいつの時代か不明ながら古戦場であった、とする伝承もあるという。

以前から、書物や各方面とのお話で「安房東部の海岸沿いに、スゴい山城がある」と聞いていましたが、なかなか地理的&距離的な制約が大きく、見学する機会のなかった江見根古屋城、今回、念願の見学を果たしてきました。
今回は、千葉城郭研究会の遠山さんと松本さん、「余湖くんのホームページ」の余湖さん、「北総の秘めたる遺跡」の岡田さんとの五人での見学となりました。特にご案内頂いた遠山さん、松本さん、本当に有難うございました。

遺構はというと、JR江見駅真裏の太平洋に面した標高150mほどの山の尾根全体に広がっており、かなり高度な技巧を凝らした本格的山城でした。地形的な印象は白浜城ととてもよく似ていますが、海からは内陸に5-600mほど、直下の平地は標高10数メートルであるため、隆起などの影響を考慮しても、直接海上兵力を抱えた、いわゆる「海城」ではなかったと思われます。が、遺構の分布は海に面した東西の尾根上に広がっていましたので、南側の海を十分に意識したお城でもあるでしょう。遺構の中でも特に目を引くのが、規模の大きい垂直切岸や、竪堀と繋がった大堀切、それにかなりの高さを持つ石垣(石積み)遺構などで、驚きの連続でした。いずれも里見氏、正木氏らの城郭に共通して見られる特徴ではありますが、この江見根古屋城はそれらの技法が集約された、「総決算」ともいえる充実振りでありました。石積み遺構は本当に中世の遺構なのかどうかは不明ですが、後世にこの急峻な山上の、それも集落に面していない奥まった支尾根上に高さ3mもの石積みを積み上げる理由は考えられず、個人的には当時のものではないか、との感触を持ちました。反面、居住性のある曲輪がほとんどなく、明瞭な削平地といえば、八幡社(現在は倒壊して他に移された)のあった曲輪と背後の尾根続き(北側)の三段削平された場所くらい。堀切や切岸などの防御遺構の間は自然地形の尾根(両側は削り落とされている場所もあるが)のままで、多くの削平地があるわけでもなく、削平地そのものも非常に狭く、大軍の籠城や長期の居住にはちょっと辛そうな感じでした。

ここは城主や築城に関する記録、伝承が一切なく、誰が何のために、いつ頃築いたお城のなの、全く不明のままです。地元の方数人にお話を伺ったところでも、ここのお城がある、という認識は全然持たれていないようでした。今回ご案内頂いた松本さんが、昭和六十二(1987)年に「軍田(ぐんでん、いくさだ)」という地名から調査して発見に至るまで、その存在すら知られていなかったそうです。これほど規模が大きく高度な城郭があるにもかかわらず、その普請に関する伝承も、城主に関する伝承も、ましてお城がそこにあるという認識すら持たれていない江見根古屋城とは、いったい如何なるお城なのでしょうか?

ご案内頂いた遠山さんの説では、「正木憲時の乱(天正十〜十一年、1580-81年)の際に、長狭・朝夷地方の「境目の城」として築いたのでは、と仰っていました。現存遺構は戦国後期にかけての高度かつ大規模なもので、かつ里見・正木氏系城郭の特徴をよく顕していることから、最も有力な説ではないかと思います。

畏れ多くもソレガシの私見を述べさせていただくと、永禄七(1564)年の第二次国府台合戦での里見氏の敗北とそれを受けての万木城の土岐氏、勝浦城の勝浦正木氏の里見氏からの離反を受けて、里見義弘か大多喜正木氏あたりが築城したもの、という考え方は如何なものでしょうか?理由は、この時期里見氏は、国府台での敗北後、池和田城秋元城などの上総中部の城を北条に奪われ、一時は本拠の久留里城まで奪われて、本貫地の安房で存亡を賭けての再起を決していた時期であったこと。この時期、前述の勝浦城の勝浦正木時忠の離反などもあり、もともと支配の不安定であった内房沿岸の佐貫城から久留里城大多喜城勝浦城という、上総中部を東西に横断する「国防ライン」が機能しなくなりました。そこで里見氏は、その「最終防衛ライン」を岡本城宮本城滝田城または里見番所江見根古屋城という、長狭街道南側に設定したのではないか、という考え方です。憲時の乱は一年余りで鎮圧され、里見氏は正木憲時が占領した上総東部・安房東部もほどなく奪還しており、その短期間ではこれほど大きなお城が必要でなかったのでは、またこの短期間ではこれほどの大きなお城が作れないのでは、とも思います。反面、里見氏が勢力を盛り返す「三船台合戦」のあった永禄十(1567)年までの期間で考えると、三年も期間がある割には未完成な印象(削平の甘さや曲輪の少なさ等)、城主に関する伝承が全くない、そもそも残された遺構がもっと後の高度なものである可能性が高い、など、『越後説』にも矛盾が多いのも事実です。それに「どうせなら長狭街道の北に設定すればいいのに」「それじゃ大多喜城が孤立しちゃうよ!」と思わないでもありません。この説には裏づけが皆無でもあり、まあここは、「素人の妄想」ということでアテにはしないでくださいね。

なお見学当日は、前述のとおり、遠山さん、松本さんという、江見根古屋城を語るのにこれ以上のメンバーはいない!という方々にご案内を頂き、小雨のぐずつく中、ほぼ全域を歩くことができました。登山口は非常にわかりづらく、道なき急斜面を直登し、最後は猛烈な小竹の藪をバキバキと掻き分けながら生還しました。山上の尾根筋はアップダウンはあるものの薮ではないため歩きやすいですが、やはり斜面が急なことや滑りやすい足許、削崖の存在など、危険な要素も多々あるため、見学の際は万全の準備をしていくことをお勧めします。

江見駅の背後、白浜城を髣髴とさせる屹立した山が江見根古屋城。細い尾根が枝状に分かれ、そのそれぞれに高度な遺構を持つ、恐るべき城郭。 登り口がわからず、その辺から取り付いてみたが、急斜面な上に滑りやすく、おまけにさっきまで止んでた雨が降り始める。雨だけはヤメテ〜!!
目出度く主郭に到達しました。ここにはかつて八幡社があり、しかもそれが倒壊して凄まじい姿を晒していましたが(余湖くんのホームページ参照)、今では綺麗に撤去されていました。 主郭といっても、多少広い削平地という程度で、そんなに大きなものではありません。そもそも登城路を登り切ってすぐ主郭っていうのも「?」ではあります。
主郭から北へ伸びる尾根を伝ってすぐ目に入るドでかい堀切。こんなスゴい堀切は安房では見たこと無い! いやとにかくこの堀切はすごい。後述の石塁&削崖とあわせて、江見根古屋城一番の見所といってもいいでしょう。
堀底から。写真で見るよりずっと迫力があります。 しかもこの堀切は両側が長大な竪堀になっています。言葉にすると平凡ですが、とにかく一見の価値、大いにあり!
北に向かう尾根上にあった井戸?単なるヤマイモ掘った痕かもしれないけど。。。 北尾根の特徴的な遺構、削崖と竪堀のセット。写真左側は掘り下げられておらず、1.5mほどの段差のみ。両側には竪堀が下りています。里見番所の竪堀と構造が似ています。
北に伸びる尾根が二方向に分岐する付近、尾根筋は非常に狭く、一騎掛けのようです。 左写真の尾根の分岐点は綺麗に三段に削平されています。主郭以外では唯一、削平地らしい削平地に見えます。
三段削平から西に伸びる尾根の垂直削崖。尾根の岩盤をコの字にくり抜いた大迫力の遺構。 そして石積み!まさか後世のものじゃないよなあ・・・間違いなく自然地形でもないし、安房最大、いや千葉県最大の石積み遺構か!?
周囲にも崩れた石積みが多く見られました。また表土に覆われている下にも、多くの石が見られました。かなり本格的な「石垣」だったのかも・・・!? 西尾根の周囲の斜面。どこもかしこも急斜面。さらに削崖で尾根筋を切り立てているから、敵も取り付きようがないでしょう。
西尾根を下った先端の小規模な堀切&竪堀が一応の西の端か。 今度は三段削平の北側の尾根へ。最初に現れる堀切が城域の北限か。
右上の北尾根の竪堀。この先さらに概念図では遺構が続くのですが、行ってみるとどれも判然とせず、一応この日のメンバーの結論は「ここまでが城域」となりました。 今度は主郭に戻って東側の尾根へ。ここもまず小規模な堀切と、北側に下りる竪堀があります。
東尾根先端付近の堀切は、尾根先端部をぐるりと取り囲む横堀状の遺構。この地方では珍しい形態です。 しかも左写真の横堀状の堀はそのまま斜面を竪堀となって下っていきます。
東尾根先端付近にも規模の大きい垂直削崖が見られます。里見&正木系城郭の特徴がよく出ている遺構ではないでしょうか。 最後は小竹の藪を突っ切って下山。車に戻る途中、「九頭竜やぐら」背後のトンネルの尾根上に堀切を発見。「九頭竜やぐら」経由で登ってみると。。。
「九頭竜やぐら」背後の堀切は、堀切というよりも、古道の切通しのようです。トンネル開通前は、この尾根を切通しで通過していたのでしょう。 お城の東から南へ流れる深い谷。天然の水堀です。美しい滝などもあるのですが、実はなんと不法投棄の山が!怪しからん!不明な城主になり代わって、ワシが下手人を成敗してくれるわ!

光量不足&レンズが濡れて写真が鮮明でないのはお許しあれ。しっかし、こんなスゴいお城の歴史が不明ってのは残念、というよりも不思議でしょうがないです。

この頁の作成には、貴重な資料をたくさん提供頂いた遠山成一様、ご案内頂いた松本勝様のお話、資料等を参考にさせて頂きました。この場を借りて、改めて御礼申し上げます。

 

 

交通アクセス

館山自動車道「鋸南富山」ICより車40分。

JR外房線「江見」駅徒歩5分で登り口。

周辺地情報

長狭街道沿いの山之城城や金山城など。

関連サイト

当日ご一緒させていただいた余湖さんの「余湖くんのホームページ」に、素晴らしい概念図があります。

 
参考文献 「すべてわかる戦国大名里見氏の歴史」 ( 川名 登 編/図書刊行会)、「図説房総の城郭」(千葉城郭研究会/国書刊行会)、「中世城館調査報告書」(千葉県天津小湊町、遠山成一氏稿)

参考サイト

余湖くんのホームページ

 

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