窮する里見、北条を噛む

三船山砦

みふねやまとりで Mifuneyama-Toride

別名:三船台砦、三船山城

千葉県君津市上湯江

(三船山アメニティロード)

城の種別

山城(陣城)

築城時期

永禄七(1564)年〜十(1567)年ごろ  

築城者

藤沢播磨守、田中美作守

主要城主

北条氏

遺構

曲輪

「障子谷」方面から見た遠景<<2002年02月24日>>

歴史

永禄七(1564)年の第二次国府台合戦で北条氏に敗れた里見氏は、一時本拠の久留里城佐貫城も北条氏に占領され、また勝浦正木氏、万木土岐氏などの離反により苦しい立場に立たされた。里見氏はその後徐々に失地を回復、永禄九(1566)年には水軍をもって三浦半島に焼討ちを仕掛けた。こうした中、北条氏康は里見氏の息の根を止めるべく、佐貫城の北にある三船山に藤沢播磨守、田中美作守らに命じて砦を築かせ、佐貫城を伺った。里見義弘は三船山砦の奇襲を画策するが、その動きを察知した藤沢播磨守が北条氏政に援軍を要請、永禄十(1567)年八月、北条氏政は三万の大軍を率いて三船山に着陣、里見義弘と対峙した。里見義弘は自らは虚空蔵山に着陣し、三船山の北方の八幡山に正木大膳を配置、南北からの挟み撃ちを画策した。里見勢は正木憲時が八千の軍勢を率いて三船山に向かい佐貫城を進発、正面から仕掛けて敵を障子谷の深田に誘い込み、身動きが取れなくなったところを正木大膳らの部隊が襲撃し、北条氏は殿軍の岩槻城主・太田氏資をはじめ死傷者二千五百名の大敗を喫し、上総から撤退した(三船山合戦)。

二度の国府台合戦と並んで、北条と里見のもうひとつの運命の決戦「三船山合戦」。北条の大軍は、この三船山に陣取り、佐貫城方面の里見勢と対峙しましたが、里見氏の乾坤一擲、というか、「窮鼠猫を食む」の逆転勝利で北条氏は上総南部から撤退します。この頃、里見氏の危機は相当に深刻で、永年同盟関係にあった勝浦正木氏、万木土岐氏が離反、池和田城秋元城などの上総中央部、一時は本拠の久留里城まで北条に占領され、存亡の危機を迎えていました。第二次国府台合戦の敗北からその後、立ち直って徐々に勢力を回復した里見氏ですが、やはり危機にあったことは確かでしょう。その里見氏に引導を渡すべく、北条氏政が三万の大軍で陣取ったのがこの三船山です。しかし、正木大膳(後述)らの巧みな用兵により、北条軍は障子谷の深田で身動きが取れなくなり、死傷者2,500名という大敗を喫し、西上総からの撤退を余儀なくされました。もしこの時、北条が勝っていたら、里見氏は滅亡したかもしれません。房総半島にとって「その時歴史が動いた」瞬間でした。やっぱり、勝負は下駄を履くまでわからん、とか、勝って兜の緒を締めよ、じゃないですが、北条の一瞬の油断なんでしょうねえ。結局里見氏はこの戦いには勝ったものの、頼みの綱の上杉謙信が北条氏康と和睦、その後もたびたび上総を攻められて、終に里見義弘はこの北条氏との果てしない戦いに終止符を打ち、「相房和睦」に至ります。実質的には里見氏の「体力負け」でしょう。

ところで、この三船山合戦で活躍した「正木大膳」、従前は「槍大膳」の異名を持つ、後期里見氏随一の臣(というか同盟者)の正木時茂であるといわれてきましたが、この正木大膳は永禄四(1561)年に死亡しているらしいことがわかったそうです。(「新編房総戦国史」千野原靖方/崙書房、「すべてわかる戦国大名里見氏の歴史」川名 登/図書刊行会 等)ということはこの「正木大膳」はのちに大多喜城で暗殺される正木憲時だったのでしょうか。それとも軍記物の粉飾なのでしょうか。

また、この戦いでは、あの岩槻城主、父・太田三楽斎資正を追って北条に寝返った太田氏資が戦死しています。小田原城にたまたま伺候した氏資は、北条氏政に挑発され、わずか52名の士卒を従えてろくに仕度もできぬまま渡海、混戦の中で殿軍を務め、主従ともに討ち死にします。この後、岩槻城と岩槻太田氏は北条氏政の弟、氏房が嗣ぎ、実質的に北条氏の直轄となります。まあ、利用されるだけ利用されて捨てられたというか、犬死にというか、太田氏にとっても悔やみきれない戦になりました。この息子の氏資に岩槻城を追われて、佐竹氏の客将として片野城にいた父・三楽斎資正はこの悲報を、どんな思いで聞いたのでしょうか。

その三船山は富津市と君津市を隔てる東西に長い緩やかな山で、ソメイヨシノが多数植林され、いまでは絶好のハイキングコースになっていました。堀切などもあるらしい、ということでしたが、特に人工的なものはこのハイキングコース以外、見当たりませんでした。もっとも、NTTの中継施設がある尾根の方には行っていませんので、こちらの方に何か遺構があるのかもしれません。富津方面への眺望もこの中継施設寄りの尾根の方がいいはずで、ハイキングコース歩くより、こっちを目指した方が良かったのかも。山頂はなだらかな平場が広がっていて、なるほど大軍の着陣には適している感じがしました。富津市方面も見えるともっと良かったんですけどね。

君津の市街地方面から見る標高138mの三船山。大きなアンテナが見えるので場所はわかりやすいでしょう。上湯江集落付近から遊歩道「三船山アメニティロード」が整備されています。

山頂付近は広々した平場が広がっていますが、これといった遺構は見当たりません。ただ、所々に「塚」のようなものがあることが気になりましたが・・・。(補:「十三塚」といい、北条軍の死者を埋めたものと伝えられているそうです)

山頂付近から君津市街地、遠くの「海ホタル」方面を見る。富津市方面へは草木のため眺望が効かず。もしかしてNTTのアンテナのほうに行けばもっと眺望がいいかも。

北条軍が罠に掛かって泥田の中でもがいた障子谷。一瞬の隙を突かれたというか、里見の執念とでもいうか、とにかくこの一戦で里見氏は窮地を脱します。

一応、堀切などが残るらしいのですが場所はわかりませんでした。里見義弘が着陣した虚空蔵山、正木大膳が着陣した八幡山なども場所はわかりませんでした。遊歩道は整備されて歩きやすいですが、ぐるっと周って登るので結構距離は長いです。

 

 

交通アクセス

館山自動車道「木更津南」ICから車15。

JR内房線「君津」駅よりバスまたは徒歩60分。

周辺地情報

関係の深い佐貫城が見所多し。

関連サイト

 

 
参考文献 「すべてわかる戦国大名里見氏の歴史」(川名 登/図書刊行会)、「房総の古城址めぐり(上)」(府馬清/有峰書店新社)、「新編房総戦国史」(千野原靖方/崙書房)、「戦国関東名将列伝」(島遼伍/随想舎)

参考サイト

余湖くんのホームページ内房正木氏を捜そう会

 

埋もれた古城 表紙 上へ