千葉介さん、新成人おめでとうございます。

高品城

たかしなじょう Takashina-Jo

別名:高篠城

千葉県千葉市若葉区高品町

(春日神社周辺)

城の種別 平山城(丘城)

築城時期

不明

築城者

安藤氏(?)

主要城主

安藤氏 

遺構

土塁の一部、空堀の一部

巨大マンションに生まれ変わった高品城主郭部遠景<<2002年04月15日>>

歴史

築城時期は不明。康正元(1455)年の千葉氏の内紛で千葉氏宗家は断絶し、以後は馬加氏系の後期千葉氏が文明年間(1469-86)に亥鼻城から本佐倉城に拠点を移すが、元服式はこの高品城近くの千葉妙見宮で行われ、その際には宿所に充てられていた。この頃永正二(1505)に元服した千葉昌胤の元服の模様を描いた文書が残っている(『下総高品城と陸上交通』外山信司・「千葉城郭研究第四号」/千葉城郭研究会に収録)。この時には高品城の城主もしくは一族と考えられている安藤豊前守が千葉の諸寺社への使者役や賽銭奉納の役を務めている。その後も大永三(1523)年の千葉利胤、弘治元(1555)年の千葉親胤、元亀二(1571)年の千葉邦胤の元服の際に安藤氏が使者を務めた。利胤の元服時は小弓城の足利義明の攻撃により千葉ではなく本佐倉城周辺の佐倉妙見宮にて元服を執り行ったという。親胤の元服時には千葉附近に大多喜城主・正木大膳亮が乱入放火し日時が延期となったという。元亀二(1571)年には安藤勘解由 が「高品等覚寺薬師如来像」を造立しており、この頃はまだ千葉氏の勢力圏にあったようだが、同年十一月には里見義弘が生実城を占領するなどの情勢不安定を反映し、千葉新介邦胤は千葉妙見宮で元服できず、やむをえず本佐倉で元服を行っている。その後の合戦や廃城時期等は不詳だが、天正十八(1590)年の小田原の役までは下総南西部は里見氏勢力と北条氏・千葉氏らの勢力が拮抗して半務状態であったようだ。

名族・千葉氏が亥鼻城から本佐倉城に移った後も、元服式は千葉妙見宮で行っており、その際の宿舎に充てられていたのがこの高品城です。

言うまでもなく元服とは、男子の成人の儀式で、無理やり現代風に言えば成人式にあたるわけです。このときに、烏帽子親から元服名、「千葉介○胤」の名を与えられるわけです。あたりまえですが今時の不心得な若者と違って、酒を呑んで暴れる、烏帽子親に絡む、奇声を発して式を妨害する、同級生とダベりに会場から抜け出す、などの行為は行うはずがありません。元服はだいたい15歳前後で行うのが普通で、今時のばかも・・・いやもとい若者より5歳も若いにも関わらず、きちんと礼儀正しくこなしていたことでしょう。何百年も前の十五歳ができていたことが、なんで現代の二十歳のオトナができんのじゃ!などと思ってしまう自分はすでに社会的に見たら十分にオッサンなのでしょう。。。

肝心の城は、発掘調査などは行われたようですが、基本的に遺構と呼べるようなものは表面的にはほとんどなく、ほとんどが宅地や畑になっています。周囲の丘陵を取り込んで、自然地形を生かして広々した曲輪どりを行うのは千葉氏系城郭に多い特徴で、この高品城も要害というには疑問があるものの、起伏のある丘陵地帯と入り組んだ谷津をたくみに利用して築かれた、それなりに壮大な城だったでしょう。その地形的な特徴は伺えますが、鉄道やマンションによってその地形そのものも大分変わってしまったようです。

上の写真の巨大マンションわきにある春日神社。ここも曲輪の一つだった。 春日神社前には堀跡らしい地形が。

明確な遺構は見当たりませんが、この写真のようにかつて堀切や空堀、切通しであっただろう個所はおぼろげながら推測できます。 断片的に残る土塁の残欠とおぼしきもの。

畑の中の一角にも土塁の残欠らしきものがあります。 城址の一部はJR成田線によって切り崩された。周囲もマンションや宅地が建ち並ぶ。

 

 

交通アクセス

京葉自動車道「貝塚」IC車5分。

JR成田線「東千葉」駅徒歩15分。

周辺地情報

千葉市内の近郊では生実城(近世の生実藩森川陣屋)亥鼻城小弓城などがあります。

関連サイト

 

 
参考文献 『下総高品城と陸上交通』(外山信司・「千葉城郭研究第4号」収録/千葉城郭研究会)、「新編房総戦国史」(千野原靖方/崙書房)、現地解説板

参考サイト

余湖くんのホームページ千葉市の遺跡を歩く会

 

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