食い物の恨みは恐ろしや

石神城

いしがみじょう Ishigami-Jo

別名:

茨城県那珂郡東海村石神内宿

城の種別

平山城

築城時期

延徳二(1490)年ごろ

築城者

石神(小野崎)通老

主要城主

石神(小野崎)氏

遺構

曲輪、堀切、横堀、土塁、櫓台ほか

長大な横堀<<2005年04月17日>>

歴史

延徳元(1489)年、奥州の芦名・伊達・白河結城氏らが小佐都に侵攻し、太田城を攻撃しようとしたとき、佐竹義治に代わって奮戦、討ち死にした小野崎通綱の子・通老がその戦功として石神の地を与えられ、延徳二(1490)年頃に築城したとされる。小野崎氏は佐竹氏の宿老の地位にあり、小野崎氏の本家は山直城に居住していたが、石神小野崎氏の系列は明徳二(1391)年頃には成立しており、また永享四(1432)年三月二十日の足利持氏による小野崎(石神)越前三郎宛の感状に「石神城合戦」とあることから、このころには石神城はすでに存在し、石神小野崎氏はこの合戦で佐竹氏や足利持氏に敵対する石神城勢力(山入氏?)と闘い軍功を上げている。

石神小野崎氏は佐竹氏に従っていたが、天文四(1535)年九月に石神通長が佐竹義篤に叛乱を起こし、義篤は額田城主・額田(小野崎)盛通(篤通)にこれを鎮圧させた(石神兵乱)。また石神通長は天文十五(1546)年に額田氏との境界争いから再び挙兵、水戸城主の江戸忠通が調停に入ったが不調に終わり、このことが原因で佐竹氏と江戸氏が不和になったという。この争いでは石神城と石神小野崎氏は「没落」し、永禄元(1558)年頃に所領を回復して石神城が再建された。

その後石神氏は佐竹氏に従い那須氏の烏山城攻撃や陸奥南郷寺山城をめぐる合戦、府中城の大掾氏の殲滅作戦などに従軍し、文禄四(1595)年の知行割では石神千代房(通広)が佐竹義宣より石神の内900石を安堵されている。

慶長七(1602)年、佐竹氏の秋田移封の際に石神通広も同道し石神城は廃城となった。なお、宝永六(1709)年、秋田藩士の根本正右衛門通猶が旧国常陸に史料収集に赴いた際、秋田藩家老の小野崎通貞が石神小野崎氏に関する調査を依頼し、根本正右衛門は石神城の城跡を訪ねてその模様を報告している。

いまや「原子力の村」として有名な東海村、ここに実に綺麗に整備されたお城、石神城があります。

石神城は隣の額田城とも同族にあたる小野崎氏の居城で、ともに佐竹氏の配下にありましたが、この石神小野崎氏と額田小野崎氏はあまり仲が宜しくなかったようで、主家の仲裁もヨソにローカル戦争を繰り広げていたようです。
江戸時代中期、この地に近い大窪村の医者、岡部玄徳という人物によって書かれた『石神後鑑記』によると、天正五(1577)年、この石神城額田城の間で戦争となり、石神氏が攻め滅ぼされる様子が描かれています。ことの発端は「秋鮭」をめぐる漁業協定違反でした。このころ久慈川には「鮭といふ魚」の遡行があり、石神領と額田領で月の半々ずつで漁をするような協定がありました。ところが天正四(1576)年の秋、額田領ではいっこうに漁獲高が上がりません。これはおかしい、と調べたところ、石上領でこっそり川底に網を仕掛けて、協定に違反して鮭を獲りまくっていたことが判明、額田城主・額田照通は石神城主・石神通長にクレームをつけます。しかし石神は「んなもん、知らん!」とすっとぼけて額田氏の反感を買います。さらに石神通長は額田照通の妹に無謀な婚姻を申し入れてみたり、イヤガラセまがいな行為をしています。その後、額田照通が佐竹義重を饗応するにあたって小者二名を久慈の湊まで買出しに行かせた帰り道、この二人が石神領を通過するときに酔っ払って些細な小競り合いを起こし、捕えられてしまうのですが、石神通長は「吟味無用」とばかりこの二人を斬首にしてしまいます。額田城では、おつかいに出した小者が帰って来ず、そのせいで料理にも散々の手違いがあって、額田城を訪れていた佐竹義重は不興の様子で太田城に帰ってしまいました。額田氏が調べてみると、前述のように小者二人は石神氏によって殺害されていたことが判明、家来筋の人間を二人も言いがかりで殺され、おまけに佐竹義重の饗応にも失敗して大恥をかいた額田照通はこれまで抑えていた怒りが爆発、とうとう戦端は切って落とされました。

細かい戦闘シーンは、石神氏の忠臣・根本備後守の奥方自害の話や、根本備後守の討ち死にシーンなど、読み応えがあるのですが、すみませんが長くなるので省きます。とにかく結局石神城は落城し、極悪非道の石神通長も業火の中で自害して果ててしまいます。とにかく話の中では石神道長を徹底的に悪人に仕立て上げ、逆に額田氏の方を妙に持ち上げたりしていて、かなり怪しげな話ではあります。後年、この『石神後鑑記』は間違いだらけで全く信用できない、作り話である、とされています。『新編常陸国誌』を編纂した中山信名などは「ひとつとして取るべきものは無い」とバッサリ。しかし、たしかに系図的な間違いや基本的な人物名の間違いがあるのは事実ですが、ソレガシが思うに、天文四(1535)年に勃発した「石神兵乱」というのがこの題材なのではないか、と考えています。この兵乱についても詳細は不明ですが、隣接する額田氏との領界争いがあったことは事実のようです。そもそも系図や人名の間違いなんてこの手の軍記文学には付き物ですし、「天文」と「天正」の間違いもよくあることです。これが「天文」だとすると、石神城主は石神通長その人であり(額田城主は額田照通ではない)、この頃「石神兵乱」があり、額田氏らがその鎮圧にあたり、戦功があったのは事実のようです。と考えると、『石神後鑑記』が伝える話は誤謬や誇張はあるにしても、ある部分では本質を衝いているのではないか、とも思えます。村同士が用水権や入会地(共有管理の土地)の山林資源などの利用で揉め事を起こすことは珍しくなく、これがもとで合戦に発展したケースもままあるようです。この場合は「秋鮭」を廻る漁業権が発端になるのですが、貴重なタンパク源である鮭が争いの発端になったとしても、決しておかしくはないでしょう。仮に『石神後鑑記』がウソ八百の軍記文学だとしても、少なくともこれが書かれた江戸期には、こうした村同士の食い物などをめぐる揉め事が合戦にまで発展しうる場合がある、という認識があったことは注目してよいことではないでしょうか。

石神城の主要部は現在、非常に手入れの行き届いた公園になっています。近接する額田城と比べれば城域そのものは規模は小さいとはいえ、遺構は負けていません。主要部は両側に谷津が切れ込み、東へ向かって突出した台地になっており、先端は崖になっています。この崖の下にはかつて久慈川が蛇行しており、航空写真で見るとその蛇行痕跡が明瞭です。ただ、先端の曲輪はこの久慈川によって、多少削られているかもしれません。崖そのものは15mほどのものですが、久慈川とその周囲の湿地帯によって守られた、それなりに堅城であったようです。遺構面では城域の北側の雄大な横堀がまず目を引きます。台地そのものが決して高くないのと、谷津側からでは傾斜が緩やかな欠点を、力技で無理やり補っています。この横堀は南側にもあり、T・U曲輪の下に、多少竹薮になっていますが、明瞭に確認できます。残念なのはV曲輪の南側の横堀が土取りで消滅していることですが、まあこの程度は仕方ないところでしょうか。また、台地続きの西側の石神内宿集落はかつての家臣団集住地と見られ、集落の入り口附近にほんの少しだけ土塁が残ります。「惣構え」とも見られるようですが、城下集落にあたる町屋は含まれておらず、家臣団屋敷を含む外郭の一部、と見るほうが適切かもしれません。この土塁は民家の敷地の中で庭の築山などになっており、あまり残存度はよくないですが、石神城から谷津を挟んだ南側の長松院の台地にも土塁があるといい、かつては谷津を越えて土塁が繋がっていたとの話もあるので、結構大きな外郭部を持っていたらしいことが伺えます。アオ殿の情報によれば、この長松院の台地の南側、常磐線の線路近くにも豪快な遺構があるらしいです。こっちは見逃しました。残念。

石神城平面図(左)、鳥瞰図(右)

※クリックすると拡大します。

とにかくいいお城なので無条件にオススメできます。難を言えばちょっと場所が分かりにくいところでしょうか。せっかく綺麗な城址公園になっているのだから、道路沿いに道案内も欲しいところです。なお、東海村の図書館で購入できる『常陸国 石神城とその時代』という本は、石神城の概要や発掘の成果だけでなく、『石神後鑑記』の解題や周辺の通史などがかなり詳しく(しかも1000円ポッキリ)、オススメの一冊です。

 

 

[2005.04.20]

 

久慈川のかつての曲流部あたりから眺める石神城の遠景。比高15mほどと意外なほど低い台地です。 駐車場になっている北側の谷津の中。もともとは湧水を使った水堀として利用されていたようです。写真左の塁壁は、実は横堀の外側の土塁です。
谷津の中の池、これもかつての水堀の名残でしょう。 まず城内で目を引くのが北側に延々と続く横堀(堀3)。そのまま台地続きを断ち切る堀切に繋がります。実質的にはこの堀の内側を主要な城域と看做していいでしょう。
横堀の外側の土塁。無理やり土塁を盛り上げて横堀を作っています。しかも高い。まさに力技の一発勝負。 その横堀に繋がる堀4。堀というより横堀の開口部といった感じ。敵を寄せ付けて叩く意図があったものか、または討って出る場合の通路として設けられたものか。
T曲輪、「遠見城」は狭い曲輪で、その名の通り物見を主体としたものでしょうが、U曲輪側に向けて高い土塁があり、このお城での最上位の曲輪であることは歴然としています。 T曲輪とU曲輪の間の堀切1。写真じゃ分かりづらいですが非常に深い上、大きな横矢が掛かります。T曲輪虎口は横矢の脇の土塁開口部で、橋で繋がっていたものと思われます。
堀1の堀底から。写真はデキが悪いですが、横矢の具合がわかるでしょうか。堀底には土橋状の突起がありますが、虎口へのルートではなさそうで、その意図は不明です。 主郭の南側の横堀(堀5)。こちらも深く、切岸も急峻です。外側の土塁は先端附近でやや高くなり、櫓台にようにも見えます。
T曲輪を包むように配置されたU曲輪「ミジョウ」。実質的な生活空間としてはここが中心部にあたるでしょう。発掘調査でも四期にわたる掘立建物などが検出されています。 U曲輪の虎口前の土橋。もともとは木橋だったものを、いつのころか土橋に改修されたということです。
U曲輪虎口を内側から。両端の土塁は実は食い違いになっています。 同じく虎口を土塁上から。堀も深い。手前の土塁と奥の土塁が食い違いになっているのがわかるでしょうか。
U曲輪南側の横堀は整備はされていないもののこちらも良好に残ります。 広々したV曲輪。晴にはご覧の通り、見事な桜が楽しめます。周囲は土塁に囲まれています。
V曲輪南側の土橋。このあたりはかなり改変されているようで、旧状どおりではないかもしれません。土橋もあまり明瞭ではありません。 V曲輪南側はわずかに横堀が残りますが、その先はご覧のように土取りによって消滅してしまっています。うむむ、惜しいぞ・・・。
V曲輪西側の「内宿」へと繋がる土橋。しかし、位置的にどうも腑に落ちない上、規模も小さく、後世の畑仕事用の改変であるような気もします。 V曲輪の西側の土塁開口部。ここの土塁はひときわ高く、堀の外側にも櫓台状の土塁があることから、本来はここに橋が架かっていたのではないか、と思います。
V曲輪西側の堀。ここらへんは民家の裏手にあたるので、ちょっと見学しづらいです。 堀3の西側の台地、内宿側の土塁。このお城では基本的に外周の堀は外側にも土塁を築くことになっているようです。
その堀の外側の櫓台状の巨大な土塁。 主要部から浅い谷津を挟んだ北側に位置するW曲輪(北曲輪)。土塁や堀などの明瞭な遺構は無いようですが、地形的にここも城域に取り込まざるを得ないところではあります。
標高も低いし木も多いのであまり眺望ポイントはありませんが、チラリと見えた景色の先には久慈川の低地や、難所として名高い石名坂方面なども見えています。 内宿を取り巻く土塁の残欠。手前の道路は堀だったようです。一部は民家の築山に転用されていたりしますが、残っているのは部分的でしかありません。

 

 

交通アクセス

常磐自動車道「那珂」IC車20分、または「日立南太田」IC車10分。

JR常磐線「東海」駅徒歩30分。

周辺地情報

関係の深い額田城は遺構も素晴らしく必見です。東海村の村内では白方城、真崎城などがあります。

関連サイト

 

 
参考文献

「常陸国石神城とその時代」(東海村歴史資料館検討委員会)

「石神後鑑記 付・石神後鑑記の検討」(岡部玄徳原著、佐川常北校訂/東海村図書館)

「茨城の古城」(関谷亀寿/筑波書林)

「日本城郭大系」(新人物往来社)

参考サイト

常陸国の城と歴史余湖くんのホームページ

埋もれた古城 表紙 上へ