今に「簗田様」の歴史を語り継ぐ

磯部館

いそべやかた Isobe-Yakata

別名:岩瀬氏屋敷、「土手のうち」

茨城県猿島郡総和町磯部

城の種別

平城(方形居館)

築城時期

不明

築城者

簗田氏(?)

主要城主

簗田氏、岩瀬氏

遺構

土塁、空堀

通称「土手のうち」の堀と土塁<<2003年08月02日>>

歴史

詳細な歴史は不明。水海城を本拠とした簗田氏の別館である磯部館があった場所といわれる。元和元(1615)年五月、簗田貞助(助利)は「大坂夏の陣」に子の助吉とともに出陣し、討ち死にした。その際に磯部館には岩瀬豊前が留守居としておかれ、簗田氏の守本尊とされる阿弥陀三尊像を預けた。城址には現在も岩瀬氏が居住し、阿弥陀三尊像を所有している。

ここ最近(2003.08)行った城館のなかでもかなり印象深いのがこの磯部館、通称「土手のうち」(いい響き!)です。ここは水海城を本貫地に置き、のちに関宿城に入ることによって関東戦国史に多大な影響を与えた簗田氏の城館のひとつで、「第三次関宿合戦」で簗田氏が関宿城を北条に明渡し、水海城へ退去してからは関宿系簗田氏の準本拠であったようです。この「第三次」ののち、関宿系簗田氏は一時逼塞し、かわって傍流の水海系簗田氏が北条の配下として表舞台に出るのですが、これも天正十八(1590)年の小田原の役で没落、ふたたび関宿系の簗田本宗家が表に出てきます。水海系の簗田氏は関宿系よりも早期に北条氏に与していたらしく、想像するに、水海城に退去したはいいけれど、なんとなく居心地の悪かった関宿系簗田氏が築いて(あるいは家臣の岩瀬氏の館に厄介になって)移り住んだんじゃないか、そんな風に感じます。

しかし、大坂の陣への従軍によって簗田氏父子揃って討ち死、簗田氏はその息女に養子を迎え入れて現代まで続くことになります。この、大坂の陣に出陣する際に、簗田氏は父祖伝来の阿弥陀像をこの磯部館の岩瀬豊前なる人物に預け置いたといい、それが結局、形見の品になってしまいます。この仏像は岩瀬家代々に伝えられ、現在も岩瀬家が所有しています。

さて、ソレガシが見学に出かけた日、何人かに場所を聞いてようやくたどり着いてみると、完全に民家の敷地となっておりました。しかし、ダメもとで見学を申し入れると、たまたまお庭にいた岩瀬家のおじいさんが快く見学を許可してくれた上に、家の裏手に残る見事な土塁や堀まで案内して頂き、さらになんとくだんの仏像まで拝観させて頂きました。しかも、おじいさんのお話の面白いこと!

前述の岩瀬豊前のお話、おじいさんが子供の頃、土塁と堀が屋敷地を完全に囲んでいたこと、それを三代前の当主が崩して畑にしたこと、竹薮に覆われていた当時の屋敷内部の様子、新しい井戸を掘ったら、たまたま古井戸が出土した話、明治四十年の利根川決壊で、近隣が完全に水没する中で「土手のうち」にみんな近所の人が避難してきた話、名刹・勝願寺との関係、数代前の当主が博打好きで、屋敷が「山(賭場)」になってしまった上にすっかり身上を減らしてしまった話、関宿城博物館の学芸員の方の調査のエピソード・・・どの話も面白い面白い。しかもおじいさんの大戦中のエピソードなども聞かせてもらい、一時間以上もお邪魔してしまいました。アポなしで訪ねたにもかかわらず、こんなに親切に、しかも貴重なお話が聞けるなんて、感謝感激です。なにより、この岩瀬家のおじいさんが簗田氏のことをずっと「簗田様、簗田様」と呼んでいたのがすごく印象に残りました。

磯部館の構造はおそらく方形単郭の館形式、往時はおそらく南北200m、東西120mくらいはあったと思われますが、現在は大半が畑と宅地になっています。主な遺構としては「土手のうち」の屋号のもとになった土塁が屋敷の裏手二方向にあり、その外側には空堀が残っています。残っている範囲は全体から見たらわずかな部分でしょうが、それでもなかなか見事なものです。

英雄だけが主人公ではない、一地方の片隅の歴史と遺跡を、ずっと語り継ぎ、残して欲しいものです。岩瀬さん、ありがとうございました。

集落のはずれに位置する岩瀬さんのお宅、「土手のうち」周辺が磯部館。手前の広大な畑も、数代前までは高い「土手(土塁)」に囲まれていました。 ダメもとで見学をお願いすると、さっそく屋敷裏手の土塁あたりを見せていただきました。
突然の訪問にもかかわらず、丁寧に案内してくれる岩瀬家のおじいさん。本当にありがとうございました。 屋敷西側の見事な堀。残っている部分はごく一部なのですが、それを感じさせないほどの素晴らしさ。
こちらは北側の堀と土塁。外郭らしいものは無いそうです。堀は雨が降ると今でもすぐ泥田化するそうで、蚊が大量に発生するらしい。と聞いている間にも十ヶ所以上刺されました(痒)。 屋敷北角の櫓台と思われる高い土塁。明治の大洪水ではみんなこの「土手のうち」に避難してきたそうです。
この一直線の道がかつての大手道、虎口はこの正面にしか無かったそうです。この先は名刹・勝願寺に繋がっています。 真宗関東七大寺のひとつ、勝願寺。簗田氏や古河公方家との関係も深く、禁制なども残るそうです。岩瀬家は代々、総代を務めてきたそうで、名主としての伝統を感じさせてくれます。

 

 

交通アクセス

東北自動車道「久喜」IC車40分。

JR東北線「古河」駅より徒歩40分。

周辺地情報

水海城が近いですが遺構はなし。関宿城古河城栗橋城などが関係が深い。すぐ近くの安禅寺には簗田氏歴代の墓所があります。

関連サイト

関宿合戦」の頁もご覧下さい。

 
参考文献 「関宿城と戦国簗田氏」(千葉県立関宿城博物館)

参考サイト

 

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