関東擾乱の震源地

古河城

こがじょう Koga-Jo

別名:

茨城県古河市中央町

(古河歴史博物館)

城の種別

平城

築城時期

鎌倉時代初期   

築城者

下河辺行平

主要城主

下河辺氏、古河公方足利氏、小笠原氏、土井氏ほか

遺構

堀跡、土塁の一部、出城、門跡、移築現存門他

渡良瀬川堤防上の標柱と本丸跡の河川敷<<2002年7月07日>>

歴史

非常に長文なのでこちらをご覧下さい。 

「早く行かなきゃ」「早く載せなきゃ」と思いながらもなかなか行く機会の無かった古河城。やっと行ってきました。やはり関東の歴史を振り回した「古河公方」の城ですからね。行かないわけには参りません。古河公方誕生の経緯は古河公方館のページに記載しましたが、初代古河公方、足利成氏は古河移座当初は鴻巣の御所を居館としていましたが、ほどなくこの古河城を修築し居を移します。さすがに公方館では狭かったのか、あるいは水運と要害性を重んじてより渡良瀬川に近い地を選んだのか、経緯は不明です。以来、古河公方足利氏は約140年、五代に渡って関東のど真ん中のこの地で騒乱の主人公を演じることになります。必然的にこの古河城の周囲でも、騒乱が絶えることはありませんでした。このサイトでもはじめて「歴史」のページを別ページにすることになりました。それだけ波乱に富んだ歴史を持つ場所です。

実際に古河公方に、権力や経済力、軍事力がどのくらいあったかはわかりませんが、おそらくそういった現実の「力」よりむしろ周辺諸侯や北条氏、あの上杉謙信でさえも、その名目的な権威、大義名分を利用しようとしていたのでしょう。当然のことながら、最後は「飾り雛」と化していきます。北条氏がその権勢を拡大するに当たり、古河公方に接近して、最後は強圧的ともいえるやり方でその支配化に置いたのも、名目的な権威を利用して、いわば「執権・北条氏」の地位を確立せんとしたためでしょう。上杉謙信の関東出陣に当たっても、はじめ近衛前久を古河公方に擁立しようとして失敗し、のちには足利藤氏を奉じて権威回復を計ったのも、同じようにこの中世的で、名目的な権威を利用しようとしたのでしょう。謙信の場合はこの「中世的権威」を本気で重んじ、足利将軍中心の政治体制の復権を掲げてはいましたが、古河公方としての足利氏を本気で擁立しようとしていたとは思えず(それは近衛前久を古河公方に擁立しようとしたことでも推測できる)、やはり関東計略(とくに北関東諸侯の掌握)に当たっての大義名分が欲しかっただけでしょう。のちに擁立する足利藤氏が北条氏に捉えられ、殺害されると、謙信の関東熱も一気に冷め、その矛先を北陸・畿内に向けることになります。

遺構は市街地化と河川改修によって大半は失われ、まとまった規模のものはあまりありません。しかし、その残存範囲は実に広大で、中世には古河公方の在所として、近世には水運と日光社参の要衝として栄えた古河城の隆盛を忍ばせてくれます。こんにち古河城として知られる範囲の大半は、この江戸期に整備拡張されたものでしょう。いわゆる本丸周辺は大正時代以降の河川改修によって、渡良瀬川の広大な河川敷の下に埋もれてしまいました。地図で見るとその河川敷や背後の遊水地の広大さが判ると思います。残念ではありますが、災害防止、人命重視の観点からは致し方ないことと納得するしかありません。しかしながら広大な範囲を散策してみると、かつて湿地であっただろう地形や土塁、堀の残欠、虎口の名残などが意外によく残っていることに気付きます。この、古河城と、隣接する古河公方館をすべて歩くとおよそ8kmほど歩くことになり、改めてその広大さに驚くことになります。僕が見学した日は都心が33度の今期最高気温、おそらく内陸の古河も同じかそれ以上の気温があったでしょう。平城探索なのであまり準備らしい準備をしていなかったのですが、暑さと歩きですっかりバテました。

見学に当たっては、まず古河歴史博物館を目指すといいでしょう。ここで古河周辺の散策地図「古河てくてく観光マップ」を入手することをお薦めします。この地図はなかなか親切で、散在する古河城の主要な遺構の位置もしっかり記載されていて、大変助かります。ちなみにこの歴史博物館も近世の出城(馬出し)にあたるところで、周囲の堀や土塁は必見です(コンクリで護岸されてるのが難点)。広い駐車場もあるし、まずはここで情報収集。しかし歴史博物館には古河公方関係の展示は殆どありませんでした。あんまり好かれてないのかな?かわりに立派な古河城の模型があるので、これも必見。

古河歴史博物館になっている出城(諏訪郭)周囲の堀と土塁。規模も大きく横矢もしっかり確認できますが、遊歩道として護岸されてるのが雰囲気を壊しています。貴重な遺構になぜこんなことをするのか?理解に苦しみます。

博物館入り口に建つ「古河城出城 諏訪郭」の碑。ここは百間堀に架かる土橋、「御成道」の入り口にあたり、実質的には馬出しとなっています。この周囲の土塁はなかなか重厚です。

博物館裏手の諏訪郭土塁。手前の畑もかつては堀だったでしょう。 この何の変哲も無い道路が「御成道」。かつて徳川将軍が日光社参の際に通行した、由緒正しい(?)道。
御成道の周囲を固める百間堀の名残。今でも微低地となって、かつての湿地の名残を留めています。 御成門周辺の獅子崎土塁。柵があって中には入れませんが、この付近は古河城の旧状をよく留めています。
御成門近くにある、家老屋敷の長屋門。 三国橋そばの桜門跡。あまりに旧状を留めていなくて説得力に欠けますが、この先が観音寺郭になります。
観音寺郭にある追手門(大手門)跡の碑。住宅街の中にポツンと佇んでいます。さすがにこの碑がなかったら、ここを大手門だとは気付きません。 正定寺黒門は、古河城主であった土井氏の江戸下屋敷門を移築したもの。境内には土井利勝公の像があります。
江戸時代の宿場町を偲ばせる(?)江戸町通り。 源頼政を祀った頼政神社。もともとは立崎郭にあったのを、河川改修で現在地に移されました。神社の建つ土塁は船渡門付近だった場所と思われます。
広大な渡良瀬川河川敷に消えた古河城本丸付近。草野球場付近が本丸だったでしょう。堤防上に墓標のようにポツンと「古河城本丸跡」の標柱があります。新三国橋から北へ300mくらいの場所です。 本丸付近の堤防下には蓮田が。かつての「した堀」付近にあたります。堀の名残が湿地として残っています。
古河歴史博物館正面の通りは御茶屋門跡。食い違いの道路が名残です。県道沿いに碑が建っています。 福法寺山門として移築現存されている古河城乾門。現存する唯一の古河城建築遺構です。

 

 

交通アクセス

東北自動車道「館林」IC車15分。

JR東北・宇都宮線「古河」駅徒歩10分。

周辺地情報

足利成氏が最初に居住した鴻巣御所がすぐ近く。他は北は結城城、南は関宿城などをはじめとした、古河公方ゆかりの城。

関連サイト

関宿合戦」の頁もご覧下さい。

 
参考文献 「日本の城ポケット図鑑」(西ヶ谷恭弘/主婦の友社)、「古河市史研究 第十一号」(古河市史編さん委員会)、「古河公方展 古河足利氏五代の興亡」(古河歴史博物館)、「関宿城と戦国簗田氏」(千葉県立関宿城博物館)、「日本城郭大系」(新人物往来社)、「房総の古城址めぐり(下)」(府馬清/有峰書店新社)、古河歴史博物館配布資料、現地解説板

参考サイト

常陸国の城と歴史房総の城郭

 

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