古河公方」誕生の衝撃

古河公方館

こがくぼうやかた Kogakubou-Yakata

別名:鴻巣御所

茨城県古河市鴻巣

(古河総合公園)

城の種別

平城

築城時期

康正元(1455)年頃

築城者

足利成氏

主要城主

足利成氏

遺構

曲輪、堀切、土塁

古河公方館跡の碑<<2002年7月07日>>

歴史

永享十(1438)年の「永享の乱」で関東公方・足利持氏は上杉憲実らと闘い敗れ自刃、その遺児を奉じて結城氏朝・持朝父子が結城城で挙兵するがこれも翌嘉吉元(1441)年に鎮圧されて、鎌倉公方は一時途絶えた。結城合戦の際に捕らえられた持氏の遺児、春王丸、安王丸は京へ護送の途上で将軍・足利義教の命で斬殺されたが、第四氏・永寿王丸は信濃に逃れており、捜索の手が伸びたが、同年の「嘉吉の乱」で足利義教は赤松満祐に斬殺され、永寿王丸捜索はうやむやとなった。文安四(1447)年、北関東諸将の要請に応える形で越後守護・上杉房定が斡旋し、信濃に匿われていた鎌倉公方の第四子、永寿王丸を奉じて鎌倉府復興を幕府に願い出て許され、鎌倉公方・足利成氏として復活した。関東管領には上杉憲実の子、憲忠が就任したが、やがて成氏は上杉氏と対立、宝徳二(1450)年の江ノ島合戦を経て享禄三(1454)年十二月、結城中務大輔成朝、武田右馬守信長、里見民部少輔義実、印東式部少輔、岩松持国らが鎌倉西御門の上杉憲忠邸を襲撃し殺害したことで「享徳の大乱」が勃発した。成氏勢は武蔵府中の高安寺を本陣に上杉勢と対峙、武蔵分倍河原合戦で勝利し上杉勢を常陸小栗城に追い落としたが、幕府の命を受けた駿河守護の今川範忠が鎌倉を制圧したため、成氏は康正元(1455)年、古河に本拠を移し、これ以降「古河公方」と呼ばれた。成氏が最初に移り住んだのは鴻巣の御所で、のちに長禄元(1457)年頃、下河辺氏の居館であった古河城を改修して移った。

天正十八(1590)年、小田原の役で北条氏が滅亡した後、豊臣秀吉は天正十(1582)年に死去した古河公方・足利義氏の息女(氏女、氏姫)を古河城から立ち退かせて鴻巣館に移し、三三二石を与えた。天正十九(1591)年、秀吉は氏女に、小弓公方・足利義明の孫、国朝との婚姻を命じ、下野喜連川の地を与えた。国朝は文禄二(1593)年に死去、氏女は国朝の弟、頼氏と改めて婚姻を結び、元和六(1620)年五月、この鴻巣館で死去した。

家族連れで賑う古河総合公園の一角に「御所沼」という湿地があり、そこに半島状の台地が突き出しています。これが「享徳の大乱」からその死まで四十年にも渡って関東を揺さぶった「関東の爆弾男」、古河公方・足利成氏の館跡です。足利成氏の父・鎌倉公方四代の持氏は、ことあるごとに野心を抱き、室町幕府に反抗姿勢を示します。「上杉禅秀の乱」では幕府は持氏を支持するものの、あまりの横暴ぶりに時の将軍、「くじ引き公方」の足利義教が激怒、持氏は「永享の乱」で滅び、その遺児を奉じて結城城で挙兵した結城氏朝・持朝父子も滅ぼされ、遺児の安王丸・春王丸も斬殺されます。しかし、四男の永寿王丸は匿われ、やがて鎌倉公方の復活を願う関東諸将の後押しを受ける形で永寿王丸は鎌倉公方に就任します。これが成氏です。しかし、成氏は「父の仇」とばかりにわずか十三歳の関東管領・上杉憲忠を殺害し、武蔵高安寺を本陣に、京の室町幕府の支持を得た上杉勢と対峙します。緒戦は成氏勢が優勢で、上杉勢は常陸小栗城まで敗走しますが、やがて幕府追討軍の総大将、今川範忠が鎌倉に討ち入ったことによって成氏は下総古河に落去します。これが関東を震撼させる「古河公方」の生い立ちであり、以後140年近くにわたって、この地は関東擾乱の震源地となります。もっとも、成氏がこの館に住んだのは二年間ほどで、ほどなく渡良瀬川に面した下河辺氏の古い城館を改修してそちらに移ります。これが古河城です。ですから、この仮の館を中心にした騒乱の時期は約二年間ほどであるようです。

この成氏、北関東諸将の支持を得て、なかなか戦には強かったようで、上杉軍は苦戦を強いられます。そんな中で上杉軍を引っ張って各地を転戦したのがおなじみ、太田道灌です。道灌は成氏や、山内上杉氏の家宰職相続で対立した長尾景春らと各地で戦いを繰り広げました。結局、古河公方は幕府を仲介に和睦(この、非合法地方政権を中央政府が和睦の斡旋をする、という矛盾!)、景春の乱も鎮撫されて、いっとき関東に平和が訪れるかに見えましたが、道灌は相模糟谷の館であろうことか主君の扇谷上杉定正に暗殺され、その後は山内・扇谷両上杉氏の対立、古河公方内部の対立、その間隙を縫って北条氏の台頭、などに連なってゆきます。そのすべてのはじまりが、この足利成氏と言う男(とその父持氏)にあったと言ってもいいでしょう。そもそも、この古河という地は水運の要衝でもあり、また付近には足利氏直轄の御領所が集中していることから、成氏の古河移座は落去などではなく、もっと積極性を持ったものだったかもしれません。「成氏像」とかは見たことが無いので現存するかどうか知りませんが、何となく「一見単純でキレやすいように見えて、実はしたたかな計算ずくで動く底意地の悪い小悪党」っぽい面相を勝手に想像しています。ちなみに僕はこういう、ヒネクレた思考回路を持つキャラクターが結構好きです。

もうひとり、最後の古河公方となった足利義氏の息女、氏女にも触れておきましょう。彼女は、小田原の役ののち、秀吉に命じられてこの鴻巣御所に移り、やがて小弓公方・足利義明の孫に当たる国朝との婚姻を命じられ、喜連川氏のもととなりました。国朝の姉、嶋子が秀吉の側室となったことで、名門足利氏に存続の道が開かれたのです。しかし、国朝はその二年後に死去し、国朝の弟、頼氏と再婚、一子義親を設けた後、父祖伝来の悲喜こもごもが籠ったこの鴻巣御所でその生涯を閉じました。喜連川氏として足利氏の名跡を残したとはいえ、その人生は波乱に満ちたものであったでしょう。氏女の墓は鴻巣御所のすぐ隣、徳源院跡の片隅で、父義氏、子義親らとともに、ひっそりと佇んでいます。

遺構は、わずかの堀と土塁のみですが、明瞭に残っています。周囲の御所沼は近年に復原されたものですが、自然の湖沼地帯のような雰囲気を感じさせてくれます。この半島状台地は狭く、ほんとにこれだけの規模しかなかったのかどうかは疑問も残ります。

御所沼に突き出した半島状の台地。ここが関東を騒乱の渦に巻き込んだ、古河公方の館跡。

鬱蒼とした森林の中に建つ古河公方館跡の碑。このすぐそばに豪農の館などもあり、意外と多くの人が訪れていますが、果たして古河公方の知名度や如何に?

半島を断ち切る堀切。かつてはもっと深かったのでしょう。

わずかに残る虎口付近の土塁。

西陽が差し込む館跡の雑木林。ここが戦国関東の震源地だとは俄かには信じられないほどの静けさに包まれています。 最後の公方、義氏が開基となった徳源院ももはやこの石碑と、彼らの墓所が残るのみ。

柔らかい西陽に包まれた義氏(右端)と氏女(左端)の墓所。義氏の墓所は墓石さえない侘しさ。世のはかなさに何やらホロリときてしまうような場所です・・・。 御所沼に沈む夕陽を眺めつつ、古河公方の栄華盛衰をしばし想う。

 

 

交通アクセス

東北自動車道「館林」IC車20分。

JR東北・宇都宮線「古河」駅徒歩20分。

周辺地情報

近世まで栄えた古河城がすぐ近く。他は北は結城城、南は関宿城などをはじめとした、古河公方ゆかりの城。

関連サイト

関宿合戦」の頁もご覧下さい。

 
参考文献 「日本の城ポケット図鑑」(西ヶ谷恭弘/主婦の友社)、「古河市史研究 第十一号」(古河市史編さん委員会)、「古河公方展 古河足利氏五代の興亡」(古河歴史博物館)、「関宿城と戦国簗田氏」(千葉県立関宿城博物館)、日本城郭大系(新人物往来社)、「関東管領・上杉一族」(七宮達三/新人物往来社)、古河歴史博物館配布資料、現地解説板

参考サイト

常陸国の城と歴史房総の城郭

 

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