『神皇正統記』誕生の地

小田城

おだじょう Oda-Jo

別名:

茨城県つくば市小田

城の種別

平城

築城時期

建久三(1192)年    

築城者

八田知氏

主要城主

小田氏、梶原氏、小場氏

遺構

曲輪、土塁、櫓台跡、水堀跡

主郭周囲の堀跡<<2001年12月15日>>

歴史

下野守護の宇都宮氏の一族の八田氏が鎌倉初期に常陸守護職につき、小田城を本拠地とし、建久四(1193)年には旧勢力の多気氏を失脚させ、安定した基盤いた。 四代時氏から、地名に因み小田氏を称した。

延元三(暦応一・1338)年、南朝方の北畠顕家が戦死した後、その父・北畠親房は伊勢から船で東国に向かい、海上で大風に遭って常陸東条浦に着岸、はじめ神宮寺城を拠点としたが形勢が思わしくなく、阿波崎城を経て常陸の有力勢力であった小田治久を頼り小田城に入城、以後、東国における南朝方の中心拠点となった。

延元四(1339)年、後醍醐天皇が崩御し新帝後村上天皇が即位すると、新帝に献上するため親房は「神皇正統記」をこの小田城で著した。暦応四(興国六・1341)年六月、北朝の高師冬が宝篋山に陣取って小田城を攻めたが落城せず、十一月、師冬は懐柔策により和議開城させた。親房は開城直前に常陸関城に移って抗戦した。師冬は小田治久との和議の後、北朝軍の優勢をバックに和議条件を破棄し、小田氏の官位・守護職・所領は常陸の佐竹氏に与えられ、小田氏の勢力は衰えた。

康暦二(1380)年に勃発した「小山義政の乱」では、小田孝朝は足利関東公方・氏満に従っていたが、小山義政の没後、義政の子・若犬丸が反乱を起こし、一時祇園城に立て籠もったがその後逃亡、嘉慶元(元中四・1387)年五月、小田孝朝に小田城で庇護されている事が発覚した。七月十九日、氏満は上杉朝宗を大将に小田城を攻め、孝朝は降伏したがその子治朝・小田五郎らが若犬丸を匿って常陸難台山城に籠城、八ヶ月の攻防の後、難台山城は落城し、若犬丸は逃亡、治朝は那須資之に預けられた。小田五郎は郎党百名あまりとともに討ち死にした。

戦国期、小田氏治は越後長尾(上杉)氏・佐竹氏らと結び北条氏と結んでいた結城氏・多賀谷氏らと対抗した。弘治二年(1556)、北条氏康は下総結城城の結城政勝の援軍として江戸城代の遠山・富永、岩槻城の太田資正らを結城城に派遣、関宿城の簗田氏や下野の壬生氏、那須氏、奥州白河結城氏らが結城連合軍に加わって、海老ヶ島城を攻撃したのを契機に小田氏治が出陣、山王堂付近で激突したが結城連合軍が優勢で、氏治は敗走し、小田城も陥とされ家臣の菅谷氏の守る常陸土浦城まで撤退した(第一次山王堂合戦・海老ヶ島合戦)。謙信の関東出陣後はこれに従い転戦したが、小田氏治はその後、北条氏の調略に応じて謙信に叛いた。永禄七(1564)年、上州厩橋城に駐屯していた謙信は寝返った氏治を討つべく山王堂付近に進軍、越後・佐竹連合軍との間に合戦となり、氏治は再び敗走し小田城に籠城したがこれも陥とされ、土浦城に退いた(第二次山王堂合戦)。

永禄十二(1569)年、北条によって岩槻城を追われ、佐竹義重に庇護されていた、片野城主・太田三楽斎資正と柿岡城主・梶原政景親子を攻めるべく軍を進めたが、資正親子は真壁城の真壁氏幹らの援軍を得て筑波山麓の手這坂でこれを打ち破り、またしても氏治は小田城を追われ、その後復帰することはなかった(手這坂合戦)。小田城には梶原政景が城代として置かれ、土浦城木田余城に逃亡した小田氏を追い詰めていたが、天正六(1578)年、土浦城に逃れていた氏治は佐竹義重に子を人質にさし出し降伏した。その後、天正十二(1584)年に小田城代の梶原政景が北条に内通し、佐竹義重に攻められたという。

慶長五(1600)年には佐竹氏の配下の小場義成が城主に任じられたが、慶長七(1602)年、佐竹義宣は関ヶ原合戦での去就を徳川家康に咎められ、秋田に転封になると同時に小田城は廃城となった。

はじめてここを訪れたとき、中世の山城とか、崖端城とかを中心に見てきたソレガシにとって、中世の城郭遺構で、これほどまっ平らな平城はちょっとしたカルチャーショックでした。これまで見てきた平城は、多かれ少なかれ丘だったり多少の微高地だったりしたのですが、ここは完全な平城です。現存する屈指の中世平城遺構と言えるでしょう。主郭は方形で、もともとは典型的な中世の方形武士館だったのでしょうが、南北朝期から戦国期にかけての相次ぐ戦乱の中で拡張に拡張を重ねて、「前山」の外郭線を含む広大な城に発展していったのでしょう。まあ、殆どは農地になってはいますが、それでも地形がハッキリ残っていますからね。

現在は史跡公園化に向けての発掘調査と整備を行っている途中とのことで、たまたま発掘作業の方にもいろいろお話を聴くことが出来ました。それによれば、一部の堀が障子堀であったらしいこと、堀には水のある時期と無い時期があったらしいこと(水堀というより泥田堀)、堀の間を木橋で繋いでいたらしいことなどが分かっているそうです。曲輪間を結ぶ土橋も最近発掘されたそうです。

ただ、堀跡はよく残っている反面、土塁は殆ど崩れていたり、主郭のど真ん中を関東鉄道が走っていたり(現在は廃線)で、かなり遺構が失われていることも事実のようです。外郭線にあたる前山にも堀切などがあるらしいですが、発掘調査員の人によるとブッシュが密生していて歩けたものじゃないとのこと(行ってきましたがホントにヤブだらけでした)。

有名な「神皇正統記」は、北畠親房がここ小田城に滞在しているときに書かれたといわれています。北畠はもともと学問で朝廷に仕える中級公家の一族でしたが、この南北朝の動乱期は南朝方の一勢力として、武家顔負けの活躍をしていました。とくに親房の子、「花将軍」と呼ばれた顕家は鎮守府将軍として奥州方面の鎮撫や建武二(1335)年、足利尊氏を京都から九州に敗走させた合戦などで大活躍しました。親房は顕家の死後も南朝の中心的人物として東国を中心に活動し、小田治久に招かれてこの小田城に入城、以降、暦応四年(1341)に高師冬に小田城を追われるまで、南朝方の中心地になりました。武家にも負けぬ縦横無尽の活躍ですが、しかしそこはさすが学問の家、親房は後醍醐天皇の崩御(延元4年:1339年)後、新帝・後村上天皇に献上するために戦地であるこの地で「神皇正統記」を執筆したそうであります。主郭の南端にあたる櫓台「涼台」脇には、「神皇正統記起稿之地」の石碑が建っています。ただ、「公家一統政治」という理想論はやはり武士の間では広く受け入れられることはなく、南朝方の分裂(藤氏一揆)などで小田治久も最後は降伏せざるを得ない状況でした。治久としてはのちにこの降伏をかなり後悔したようですが、一方の親房は長年に渡る「戦友」であり最大の庇護者であった治久を「万代の恥辱を表す」などと罵っているくらいですから、所詮は公家的な理想論と武士的な価値観は相容れなかったのかもしれません。

小田氏最後の城主は小田氏治でしたが、佐竹・多賀谷らの南進と北条氏の勢力拡大のもと、間に立たされた氏治は去就が定まらず、上杉謙信や佐竹義重、太田三楽斎らに攻められ三度落城しています。やはり、名門といえども時代の波には太刀打ちできず、苦悩の末に滅亡していきました。この滅亡に至る苦悩の模様は「小田天庵記」などの軍記物では面白おかしく脚色されて伝わっています。個人的には北条・上杉らの大勢力の狭間に立ち、かつ佐竹・多賀谷・結城などの近隣諸勢力との関係の中で苦しんだ小田氏には「境目の領主」に近い苦悩を強いられていただろうとも思え、多少同情的になってしまいます。まあ、小田氏治という人は少なくともいくさは下手だったみたいですが、ソレガシ的には「判官びいき」とでもいうか、こういう負けっ放しの人というのも嫌いではありません。

小田城はソレガシはその後も何度も訪れています。その都度、新しい発見があったり、変わりゆく姿に一喜一憂したりしています。毎年十二月には発掘調査現地説明会なども行っていますので、足を運んでみるといいでしょう。なお主郭周囲の堀は雨の多い夏は水堀の様子が再現されますが、冬はほとんど水が無くなります。隅々まで歩くなら堀を横切ることが出来る冬を、満々と水の張った堀の姿を見たいなら夏をオススメします。

[2004.09.04]

小田城縄張図(左)・鳥瞰図(右) ※クリックすると拡大します。
小田城の構造 小田城散策(1) 小田城散策(2) 小田城の発掘・保存・整備

 

 

交通アクセス

常磐自動車道「土浦北」IC車20分。

JR常磐線「土浦」駅よりバス(?)

周辺地情報

すぐ裏手が前山城ですがヤブです。北は多気城、南は藤沢城などが近い。

関連サイト

 

 

参考文献

「日本城郭大系」(新人物往来社)

「戦国関東名将列伝」(島遼伍/随想舎)

「結城一族の興亡」(府馬清/暁印書館)

「上杉謙信・戦国最強武将破竹の戦略」(学研「戦国群像シリーズ」)

「上杉謙信」(学研「戦国群像シリーズ」)

「常陸小田氏の盛衰」(野村亨/筑波書林)

「南朝の戦略と関氏の謎」(坂入三喜男/筑波書林)

「戦乱南北朝」(学研「戦国群像シリーズ」)

「小田天庵記」(國史研究會 編)

「つくば市小田地区 自然と歴史」(小田地区 自然と歴史の道を歩く会)

「国指定史跡小田城跡 現地説明会資料2002.12.01/つくば市教育委員会」

「小田城跡をめぐるシンポジウム 2004.08.07 配布資料」(つくば市教育委員会)

現地解説板

参考サイト

常陸国の城と歴史美浦村お散歩団余湖くんのホームページ

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