名将・蟠龍斎を偲ぶにも

下館

しもだてじょう Shimodate-Jo

別名:

茨城県下館市甲

城の種別

平山城

築城時期

文明十(1478)年 

築城者

水谷勝氏

主要城主

水谷氏、松平氏、増山氏

遺構

なし

八幡社に建つ下館城址碑<<2003年06月15日>>

歴史

天慶年間(938-948)、藤原秀郷が平将門追討のために常陸伊佐野三ヶ所に館を築いたうちの「下館」にあたるというが定かではない。のちに伊佐城を本拠とする伊佐氏が領有していたといわれる。

文明十(1478)年、水谷伊勢守勝氏が結城氏広から下館領を与えられ築城したという。水谷氏は「結城四天王」の一員として主家の結城氏を援け、近隣諸将と戦った。

天文八(1539)年、結城政勝は武蔵吉見城で古河公方足利晴氏に敵対する大串左衛門入道武成・重義父子を攻撃した。この合戦に下館城主・水谷治持とその子(養子とも)玉若丸(のちの正村)も従軍し戦功を挙げた。この合戦の際に、下妻城主・多賀谷政朝が戦功を偽ったことが発覚し、水谷氏と多賀谷氏は対立、天文九(1540)年三月三日、多賀谷氏の執事、成田知虎の非礼をめぐって武力衝突し、多賀谷氏は下館城に押し寄せたが、城門に差し掛かったとき、水谷正村らが討って出たため多賀谷軍は浮き足立った。この合戦を知った主君の結城政勝は大いに驚き、ただちに仲裁した。

天文十一(1542)年、下館城主・水谷正村は入道して蟠龍斎と号した。蟠龍斎は天文十四(1545)年十月、宇都宮氏の家臣・中村日向入道玄角を下野中村城に攻め滅ぼした上で、宇都宮氏の逆襲に備え久下田城を築城し、自らは久下田城に移り住み、下館城は弟の勝俊に預けた。天文十五(1546)年九月には宇都宮氏の家臣、八木岡城主の八木岡貞家らが久下田城に来襲したがこれを撃退し、八木岡貞家を討ち取った(物井小堀切合戦)。また天文十六(1547)年には武田治部太夫信隆の攻撃を受けたがこれも撃退し、信隆を討ち取っている。この合戦では水谷蟠龍斎は鉄砲を用いていたという。

天文十七(1548)年二月、小田城主・小田政治が没すると、水谷蟠龍斎は真壁城主・真壁氏幹を説いて小田氏との同盟を解消させ、結城氏との同盟に寝返らせている。この後、結城政勝の跡を嗣いだ結城晴朝に従い、北条氏と上杉氏の間を行き戻りしつつ各地で転戦、永禄十一(1568)年には弟の勝俊に家督を譲り隠居したが、その後も多賀谷重経との戦いや田野城攻めなどに転戦し、天正十九(1591)年に下館城に戻り、慶長三(1598)年六月二十日に死去した。

慶長五(1600)年の関ヶ原の役では水谷勝俊は徳川秀忠に従って東軍につき、下館城には上杉景勝攻めに向かう秀忠が逗留したこともある。

水谷氏は勝俊の後、寛永十六(1639)年、勝隆のときに備中成羽に転封、さらにその後に備中松山城に転封となり、松山城を大々的に改修した。下館城には松平頼重五万石が入ったが、寛永十九(1642)年に讃岐高松に移封され、一時幕領となった。寛文三(1663)年、増山正弥が入封、以後井上正岑、黒田直邦と続き、享保十七(1732)年、直邦が上野沼田城に転封となると、石川総茂が二万石で入封し、石川氏九代ののちに明治維新を迎え廃城となった。

現在の茨城県下館市に、戦国の時代、「常勝」を謳われた名将がいました。名を水谷(みずのや)正村、入道して蟠龍斎。結城城主・結城政勝(この人も名将です)、晴朝(迷将?)に仕えた結城の忠臣にして結城四天王の頂点、いわば結城の守り神のような存在でした。「水谷氏?聞いたこと無いなあ」という方には、あの備中松山城を思い出して頂きましょう。今に残る松山城の天守をはじめとした近世山城の遺構は、この水谷蟠龍斎の後裔が備中成羽を経て高梁に入部した際に築いたものです。

それはともかく、蟠龍斎の初陣は武蔵大串領への出陣、このときはまだ玉若丸を名乗る少年でしたが、古河公方足利晴氏、主君結城政勝の命により父(養父とも)の水谷全芳治持に従い出陣、奮戦ののちに大串左衛門尉は自刃し、玉若丸は勝利の証として、附近の寺から梵鐘をぶん取って帰還しました。いわゆる「蟠龍の釣鐘」と呼ばれるもので、実物は戦時中の供出で失われましたが、復元の釣鐘が久下田城下の芳全寺(治持全芳の菩提寺で、蟠龍斎の墓所もある)にあります。

蟠龍斎の戦国武将としての活躍は久下田城の頁を見ていただくとして、政治家としての蟠龍斎を見てみると、これが出来すぎていると思ってしまうくらいよく出来ています。

たとえば竹垣のエピソード。天文十(1541)年、春から夏にかけての大雨続きで領内は食料も燃料も枯渇、そのとき、城内御目付役の中村九郎右衛門成勝なる人物が雨で崩れた三ノ丸の竹垣の一部を燃料として燃やしてしまった。これを見ていた人々、「御目付役がやるのだから」と自分たちもどんどん竹垣を燃やし始め、竹垣百間ばかりが完全に壊されてしまった。やがてこれは蟠龍斎の知るところとなり、詮議が行わたが、ここで領民の窮乏ぶりを知った蟠龍斎、「三ノ丸の竹垣を燃やした中島を罰するよりも、家中のものが困らぬ政ごとを行うべきである。今、譜代の家臣の命はとても大切だ。百間の竹垣よりもただ一人の足軽の命の方が尊い。」と、くだんの目付けを無罪放免し、それどころか米百俵。薪百駄を緊急にお下しになったとか。蟠龍斎版「米百俵」というところでしょうか。このエピソードでは、お城の城壁に「竹垣」が使われていたことも分かりますね。中世城郭の様相を想像するのに役立つ挿話でもあります。

また不作の年には年貢を三分の一に減免し、足りない年貢は自らの伝家の宝刀を売り払って充当した、とか、翌年は豊作になり、領民がいつもどおりの年貢と宝刀の買戻しを訴えると、「去年のままでいい」とまたまたあっさり減税延長。いやぁ、今の時代にこそ欲しい人材ですよね(笑)。そんな水谷正村は結城政勝にも頼みとされ、二十一歳のときに政勝の息女、小藤姫を娶り、主君から「政」の字を拝領して水谷政村と名乗ります。しかし、花のように美しいと云われた小藤姫は翌年、女児を出産後に十七歳で死去、これを機に結城の乗国寺にて剃髪・入道し「蟠龍斎」と号し、下館城を弟の勝俊にポンと譲り、自らは敵地最前線の久下田城に居住、生涯妻も持たず、跡嗣ぎも持たずに戦火の中に身を投じたという、武人の鑑のような人生を送ったのでした。

水谷蟠龍斎の跡を嗣いだ人々は前述のとおり水谷氏は備中成羽を経て高梁に移封となり、下館城は近世も様々な大名が入れ替わり立ち代り入城していますが、残念ながら現状は遺構と言えるものは殆ど無く、広大な城地の大部分は市街地や小学校になってしまいました。わずかに八幡社の社殿が建つ附近がその本丸の名残を残し、下館城址の石碑が建っているのみです。仔細に見れば街中を走る道路などにその名残があったりするのかも知れませんが、台地の真中を県道が貫いている上、宅地が密集していてなかなか往時を偲ぶのは困難です。強いて言えば、東側の五行川に面した急斜面にわずかにその面影が見えるかな、といった程度です。ちょっと蟠龍さんを偲ぶには物足りないかな・・・。

五行川に面した下館城もすっかり学校や宅地で姿を変え、往時を偲ぶのはなかなか難しい。わずかに八幡神社附近の竹薮が雰囲気を残しているのみ。 その八幡神社。城址碑や解説板などが設置されています。ここがわずかに残った本丸の一部か。
八幡神社脇の道。もしかして堀の名残かもしれないが、もうここまで改変されるとなんとも判断のしようがない・・・。 下館城は台地上に広がる広大なお城でしたが、道路や宅地によってご覧の通り。
水谷氏累代の菩提寺、定林寺には、蟠龍さんの弟、勝俊が寄進した釣鐘があります。 水谷氏累代の墓所。ちなみに蟠龍さんのお墓は久下田城下の芳全寺にあります。

 

 

交通アクセス

東北自動車道「佐野藤岡」IC車45分。

JR水戸線・関東鉄道常総線・真岡鉄道「下館」駅徒歩10分。

周辺地情報

蟠龍さんの最前線の居城、久下田城や、主家の結城城城の内館など。

関連サイト

 

 
参考文献 「水谷蟠龍斎」(桐原光明/筑波書林)、「結城一族の興亡」(府馬清/暁印書館)、「結城氏十八代」(石島吉次/筑波書林)、「日本城郭大系」(新人物往来社)、「戦国関東名将列伝」(島遼伍/随想舎)

参考サイト

常陸国の城と歴史

 

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