奪い合い、武蔵の要衝

松山城

まつやまじょう Matsuyama-Jo

別名:

埼玉県比企郡吉見町南吉見

(吉見百穴隣)

城の種別

平山城(丘城)

築城時期

応永年間

築城者

上田左衛門尉友直

主要城主

上田氏、太田氏、上杉氏、松平氏

遺構

曲輪、土塁、空堀、竪堀

主郭物見櫓下の空堀<<2003年07月13日>>

歴史

築城時期は定かではないが、応永年間初期、扇谷上杉氏被官の上田氏築城と伝えられる。

天文六(1537)年四月二十七日、扇谷上杉朝興は河越城で死去、朝定が跡を継いだが、これを知った北条氏綱は河越城に進撃、三ツ木で朝定の叔父、朝成を破り、上杉軍は総崩れとなり、河越城を捨てて松山城に退却した。氏綱は松山城まで追撃戦を行い、平岩隼人正重吉が上杉朝成を生け捕るなどの戦功を挙げたが、城代の難波田弾正憲重らの奮戦で落城には至らなかった。

河越城奪回を目論む扇谷上杉朝定は、山内上杉憲政、古河公方足利晴氏らと結んで、天文十四(1545)年、北条綱成の守る河越城を八万とも言われる大軍で包囲するが、翌天文十五(1546)年四月二十日の北条氏康の奇襲戦で敗北、扇谷上杉朝定は討ち死にし扇谷上杉氏は滅亡、山内上杉憲政は上州平井城に落ち延びた(河越夜戦)。そのため、武蔵の在地土豪は軒並み北条氏に帰参、松山城の上田朝直も降伏し、以降は「松山衆」と呼ばれる家臣団が編成され、実質的に北条氏の支配下に入った。

永禄三(1560)年、平井城から越後春日山城に逃れていた上杉憲政を奉じて上杉政虎(のちの謙信)が関東に出陣すると、北条氏康は武蔵に進軍し、松山城に陣を置いたが、氏康は小田原城での籠城策に切り替え、翌永禄四(1561)年四月には上杉政虎により松山城は落城、城主の上田朝直は秩父の安戸城に退いた。政虎は岩槻城主の太田三楽斎資正に松山城を預け、資正は城将として上杉新蔵人憲勝を置いた。

永禄五(1562)年十一月、北条氏康・武田信玄の兵五万数千が松山城を包囲、松山城は容易に陥ちず、信玄は甲斐より金堀衆を呼び寄せて坑道作戦を採るなどの奇策を用いた。上杉政虎は救援のため越山し関東に出陣、武蔵石戸城まで迫ったが、翌永禄六(1563)年二月、城将の上杉憲勝は水の手を断たれた事と、北条氏の和睦交渉により援軍を待たずに開城、激怒した政虎は人質として預かっていた憲勝の子を斬り捨てたといわれる。松山城には上田朝直が復帰、以後長憲、憲直、憲定が城主となった。

天正十八(1590)年の小田原の役では、豊臣軍の北方方面軍である上杉景勝・前田利家勢に攻められ落城、徳川家康の関東移封後は 松平家広が一万石(後に二万五千石)で封じられた。慶長六(1601)年、松平忠頼が遠州浜松城に移封となり、松山城は廃城となった。

有名な「吉見百穴」のすぐ隣です。武田信玄の有名な坑道作戦はこの吉見百穴を見て思いついたと言われています。もっと深い山の中のお城かと思っていたのですが、意外なことに市街地から橋一本渡っただけ、山というよりは丘の上に松山城はあります。市野川が大きく山麓を取り巻くように流れているため、要害の構えではありますが、どちらかといえば大規模な普請で人の手によって要害を作り出したものとも言えるでしょう。

現在でも空堀等の遺構が非常に良好に残っていて、整備もそれなりにされているようです。面積は思ったより広くない印象ですが、周辺の開発が進んでおり、実は往時はもっと城域が広かったかもしれません。

ここは武蔵の中央に位置し、上杉・北条・武田が何度となく奪い合った激戦の地でもあります。北条氏綱が最初に松山城を攻撃した際には、有名な「松山城風流合戦」が交わされています。これは、扇谷上杉軍の城代難波田弾正憲重が味方の戦況不利なのを見て城に引き上げる途中、北条方の山中主膳に和歌問答を仕掛けれらたというもの。

あしからじ よかれとてこそ戦わめ など難波田の崩れゆくらん

(主君のために良かれと思い闘ったのではないか、なぜそれなのに難波田弾正ほどの名のある者が逃げるのか)

馬を停めて踵を返した難波田弾正、

君おきて あだし心を我れもたば すえの松山波も越えなん

(幼い主君を置いて自分が死せば、しまいには松山は荒波の中に呑まれてしまうであろう。そういうわけにはいかんのだ)

とやり返したとか。まあ軍記物っぽいお話ではありますが。その後は永禄六(1563)年の武田軍の、「金堀衆」による得意のトンネル作戦が有名です。また、この攻防では、上杉政虎(謙信)の援軍を待たずに開城したことに立腹、「腹いせ」に小田助三郎家時の守る騎西城を攻め落としています。小田家時が「なんでそぉ〜なるの!?」と言ったかどうかは定かではありません。

見学当日は夕方から小雪がちらつくほどの半端じゃない寒さと日没のため、駆け足での見学になってしまいました。もう一度きちんと見たい城ですね。

【再訪:2003年07月13日】

この日、「お城めぐりメーリングリスト」でも大活躍の尾張ちえぞー殿♪が関東御下向とのことで、むく殿ご同席のもと、松山城を一緒に歩きました。その結果をもとに、以前の記載で不正確だった場所の訂正、写真の入れ替えなどを行いました。夏の松山城なんていかがなモンか、と思っていたら、案外綺麗に下草刈りがされているし、雨上がりで緑が瑞々しかったこともあり、なかなか清々しい気分で見学ができました。今回ふと気づいたのが堀底の微妙な段差。場所によっては明瞭な土橋状の形状をしていますが、土橋のように直接削平面と同じ高い位置では接続されていません。一部は橋脚を立てるための橋台と思われますが、その一方、一部には「畝堀」であったのでは、と思わせる箇所もありました(写真では不明瞭なので掲載していません)。松山城の改修歴を考えれば畝堀も多少あっても不思議ではないし、山中城みたいな極端なものでなければ、堀底に段差をつける、あるいは泥水の水位を調節する、などの目的で小規模な畝が用いられた堀はこのお城に限らず、意外と多いのでは、と思っています。もちろん異論もあるでしょうし確証はありませんが、これから出かける方は堀底の段差、微妙な起伏も観察してみてください。

東松山市街を抜けて市野川を渡ったところ、小高い丘が松山城。三方を川に囲まれ、切り立った斜面が敵を阻む要害の地でした。この写真の左手に有名な吉見百穴があります。 岩室観音堂の切り通し遺構は、竪堀も兼ねているようです。ここはとても滑りやすいので注意!
岩室観音堂を登りきったところ、何曲輪というのかわかりませんが、現状ではもっとも眺望が開けている場所です。 左写真の曲輪から市野川越しに東松山市街地方面を見る。幾度の攻防では、この川の向こうに敵が取り巻いていたことでしょう。
主郭には解説板が建っています。しかしこの横には神社がまるで風に飛ばされたようにひっくり返っている・・・。 主郭東に突出した場所に建つ城址碑。物見櫓跡とのことですが、おそらくこの突出部は二郭からの木橋接合点を直接睨む重要地点だったのでしょう。
主郭南の突角陣地であるササ曲輪との間の堀底道。ササ曲輪は南側斜面からの敵を迎え撃つ迎撃拠点のひとつでしょう。 ササ曲輪附近から見る太鼓櫓跡。その名の通り、太鼓櫓があったのでしょう(ってそのまんまじゃん)。
主郭と二郭を隔てる大規模な空堀。堀底は緩やかに傾斜し、部分的に微妙な段差があります。 堀底から見上げる圧巻の風景。といってもこの小さな写真じゃ迫力は伝わらない。これは一念発起して行くべし。
主郭物見櫓下の堀。これでもか、という直線的な折れは、戦国後期の北条氏による改修を物語っているかのようです。 二郭に建つなにやらの神社。この周囲にも大規模な堀が複雑に廻っています。
二郭の斜面南側の堀を見下ろす。ここも塁壁が高く迫力があるのですが写真ではどうも伝えきれませんな。 二郭から春日丸方面。写真右手の狭い平場は馬出し状の形状です。
二郭と春日丸を接続する部分、土橋としては妙に低い場所にあります。木橋の橋台にもみえますが、堀底に段差をつけることを目的とした、ある種の畝状防御施設にも見えます。 上写真の、春日丸の南西に連なる馬出し状施設。改修時期等を考えれば、こうした馬出し状構造物があるのも不思議ではありませんね。
二郭と三郭の間に横たわる春日丸。「春日」の名前の由来は何なのだろう?春日(高坂)弾正とゆかりでも?? 春日丸と三郭を隔てる堀切も見事のひとことです。
これは春日丸と三郭の連絡路。ここも土橋としては中途半端、橋台なのか畝なのか、あるいはやっぱり土橋なのか。 左の堀の南側、非常に幅が広い堀、と思ったらどうやら「池跡」だったらしい。ただ池が本当にあるかどうかは未確認。
三郭はすっかり藪化しておりました。。。まあ例によって、お構いなしに突入します。 三郭と広沢曲輪の間の堀切は規模が小さい。あるいは北条氏の息がかかる前の規模って、こんなものだったのかも。
畑になっている広沢曲輪の片隅にある土壇。あるいはこれも橋台の一部なんでしょうか。 どこにあったか場所を忘れた竪堀(苦笑)。ここはもうちょいちゃんと見てくればよかったな・・・。
はじめて行った吉見百穴。信玄はこの穴を見て坑道作戦を思いついたとか。一大観光地ですが、よくよく見ると結構不気味・・・といいながら、しっかり穴にも入りましたが(笑) 吉見百穴から見る松山城。信玄の目からはこんな風に見えていたのだろうか。それにしても「坑道作戦」って、心理戦以外の実戦効果ってあるのかなぁ?

 

交通アクセス

東武東上線「東松山」駅徒歩30分。

関越自動車道「東松山」IC車15分。

周辺地情報

松山IC脇の青鳥城などが行きやすい。吉見百穴は有名ですね。時間が遅かったため中は見ませんでした。その周囲は、「ひなびた温泉街」の雰囲気が漂って何とも言えません(失礼)・・・。

関連サイト

余湖くんのホームページ」に素晴らしい鳥瞰図があります。

 

参考文献 「日本城郭大系」(新人物往来社)、「真説戦国北条五代」(学研「戦国群像シリーズ」)、「関東三国志」(学研「戦国群像シリーズ」)、「埼玉の古城址」(中田正光/有峰書店新社)

参考サイト

埼玉の古城址

 

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