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奮戦、佐竹の侵攻を撃退した城

稲積城

                                                  

いなづみじょう Inadumi-Jo

別名:

稲積神社参道脇の標柱

<<2005年01月30日>>

所在地
栃木県那須烏山市下境
埋もれた古城マップ:栃木編
交通アクセス

東北自動車道「矢板」IC車30分。

行き方・注意点

稲積神社を目指す。 神社参道に標柱。主郭は台地南端の畑地。

【基本情報】

築城年 天仁二(1109)年または永万元(1165)年頃(?) 主要遺構 曲輪、土塁の一部
築城者 那須資通または那須宗資 標/比/歩 標75/比15/歩0
主要城主 那須氏、本庄氏 現況 神社、山林

【歴史】

那須氏の祖といわれる、首藤権守貞信の子、資通が天仁二(1109)年に築いて神田城から移った、あるいは六代宗資のときに「平治の乱」で源義朝に与して敗れた後、甲斐稲積に逃れていたがやがて帰国し、永万元(1165)年に築いた、ともされる。

応永二十一(1414)年ごろ、福原城主の那須資之と、弟で沢村氏を嗣いで沢村城にいた沢村五郎資重が不和となり、那須家は上那須家と下那須家に分裂した。応永二十一(1414)年八月二日、那須資之ら上那須勢は沢村城を攻め、沢村五郎資重は沢村城を棄て、一時興野氏の館に落ち着いた後、稲積城を修復して居住した。資重は稲積城が平城で危険であるため、八高山に烏山城を築き、応永二十五(1418)年に移った。

その後は那須氏家臣の本庄氏が在城したという。永禄十(1567)年二月十七日、佐竹義重は長倉義当に兵を与えて大関高増らの上那須勢とともに烏山城攻撃に向かった。佐竹勢は「大将古家」に陣取り、那須資胤・資晴父子は稲積城の北に陣を布いた。稲積城には本庄三河守盛泰が入り、激戦の末佐竹勢を追い散らしたという。またこの年四月十四日にも佐竹義重は長倉義当に五千の兵を与えて烏山城に向けて侵攻、稲積城主の本庄盛泰や、金丸・大久保・秋元などの諸氏が佐竹軍を破ったという。

その後、天正十八(1590)年に那須氏は小田原攻めへの遅参の咎により豊臣秀吉に所領を没収され、佐良土城に蟄居した。稲積城もこのとき廃城となった。

【雑感】

稲積城は那珂川曲流部の左岸にある広大な台地全体を取り込んだ平城で、那須氏が最初の居館であった神田城から、この稲積城を築いて移ってきた、とのことです。那須与一がここで生まれた、という説もあります。

ただ、実際問題としてこの稲積城を見る限り、平安・鎌倉初期の武士の居館としては少々進みすぎているというか、あまりに戦国時代的な立地なのが気になるところです。神田城は周囲に肥沃な農地が広がっていて、いかにも朴訥とした開発領主の館に相応しい立地なのですが、稲積城の立地は比較的狭い谷に面しており、農業生産的にはあまり向いていない、どちらかといえば水陸の交通を抑える、純軍事的な要求に基づいて選地されたお城、という感じがしました。台地の広さも半端ではなく、そうしたことから考えても、もう少し後の時代のお城と考える方が理に適っているように思えます。

稲積城は一時、上下那須氏の分裂によって沢村城を脱出した沢村五郎資重(下那須氏の祖)がここに住み、まもなく烏山城を築いて移っています。その後は家臣の本庄氏が在城していたようで、度重なる佐竹義重の烏山城攻撃に際しても、その前衛の砦として奮戦、本庄三河守が守る稲積城も寡兵のため落城寸前に追い込まれながらも、城兵の奮戦や佐竹軍の作戦の乱れなどにより、辛うじて落城を免れ、烏山城の防衛に一役買っているとのことです。

稲積城のある台地は比高は10m程度ですが、南北が1kmほどもある広大なお城で、その北端には那須氏と縁の深い稲積神社があります。主郭は南端の「御城」の地で、ここは畑になっており、一部に土塁や「太鼓櫓」とされる櫓台の跡が残っています。ただ稲積城全体は残存状況があまり良くはなく、宅地と広い農地の間に土塁の一部などが点々と残存している程度です。明瞭な堀はのこっていないようですが、土塁の位置関係から見て、三郭程度の連郭式城郭だったようです。那珂川の水運とも関連性がありそうですが、欠点としては周囲の高い山々から城内が丸見えになってしまうことで、実際に「大海の合戦」などでは苦戦を強いられていたようです。そもそも、台地全体が広すぎて、寡兵では守りきるのが大変だったと思われます。

[2005.03.12]

水量豊富な那珂川対岸から見る稲積城附近。稲積城は長軸1kmもあり、とてもこの距離では写真に収まりません。比高10m弱の、低い独立台地全体が城域です。 稲積神社参道の入口に建つ城址標柱。このあたりは断片的ながらも一部に高い土塁が見られます。
城域の北東端にあたる稲積神社。那須氏の尊崇も篤かったようですが、位置的に見て鬼門除けの意味合いもあったのでしょう。 一応稲積城は三連郭のお城であるとされ、ここ「外城」が三郭にあたります。それにしても広すぎないか?この写真では、近接する山が高く、城内が丸見えになることがわかりますね。
那須地方のお城は素晴らしく遺構が残っているのが多いんだが、ここはどうも断片的だよな。真ん中の塚状ののもは土塁なのか古墳なのか、イマイチ確証が持てません。 左の写真の奥にも写っていた大土塁。二郭北東端にあたるんでしょう。位置的に手前の道路は堀だった、ということになりそうです。
主郭の土塁から見る二郭、字「中城」。宅地や農地が入り組んでおり、遺構は明瞭ではありません。 主郭土塁から、二郭との間の堀跡と推定される道路を見下ろす。この道路を降りた場所は、若干横堀になっている場所もあります。
主郭西端の土塁。一部、櫓台のように高く、頂部が平坦になっている部分が「太鼓櫓」だったということです。 台地先端部にあたる「御城」、主郭です。かつては周囲を那珂川とその氾濫原に守られた地形だったといいますが、現状ではその堅固さを感じることは難しいのが実情です。
訪城記録

(1)2005/01/30

(2)2005/03/20 

参考サイト

余湖くんのホームページ日本を歩きつくそう!

参考文献

「那須の戦国時代」(北那須郷土史研究会 編)

「栃木の城」(下野新聞社)

「日本城郭大系」(新人物往来社)

推奨図書

那須の戦国時代

下野新聞社 北那須郷土史研究会(編)

那須地方の戦国史を知るバイブル的な一冊。現在入手は難しいようだが、古本市場で見つけたら入手を推奨。

周辺地情報

雄大な遺構を誇る烏山城がオススメ(ただしヤブも雄大)。

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