関東旧勢力上杉氏、敗退のはじまり

深大寺城

じんだいじじょう Jindaiji-Jo

別名:

東京都調布市深大寺元町

(神代植物公園)

城の種別 平山城(丘城)

築城時期

不明

築城者

狛江氏?

主要城主

難波田氏

遺構

曲輪、堀、土塁

主郭周囲の空堀と土塁<<2001年09月15日>>

歴史

古くは武蔵七党の狛江氏の築城と伝承される。

戦国期には扇谷上杉氏の所領であったが、天文六(1537)年四月、扇谷上杉朝興は河越城で死去、朝定が跡を継いだ。上杉朝定は難波田広宗に命じて深大寺城を整備するが、北条氏綱は深大寺城に付け城を築いて封鎖し、直接河越城に進撃、三ツ木で朝定の叔父、朝成に勝利、上杉軍は総崩れとなり、河越城を捨てて松山城に退却した。扇谷上杉氏は深大寺城から徹底し廃城となった。

北条氏綱が高縄原合戦で江戸城を奪取して、扇谷上杉氏の本拠・河越城を虎視眈々と狙っていたのに対し、扇谷上杉氏が古い砦跡を急遽改修して北条氏の侵攻に備えたのがこの深大寺城と言われています。しかし、北条氏は当時16歳の氏康の初陣である小沢原合戦に勝ち、一気に河越城まで侵攻しました。こんな小城など気に留めるほどのものではなかったようです。もっとも、北条氏がこの深大寺城に対する付城として、牟礼・烏山に砦を築いたことが確認されており、この深大寺城での攻防があったことを伝える古文書も存在するらしいです。

武蔵一円が北条氏の手に陥ちた後には、この城には使われていた形跡も無く、たぶんそのまま討ち捨てられ廃城になったのでしょう。この一連の江戸城攻防から河越城攻防までは一方的に北条氏の勝利に終わっており、その後の第一次国府台合戦、そして関東の天王山・河越夜戦で決定的勝利を収めた北条氏が、関東の覇者として天正十八(1590)年まで君臨することになります。その意味では、ここ深大寺での直接の戦闘があったかどうかはともかく、上杉氏の衰退と北条氏破竹の進撃の歴史を物語る場所でもあるわけです。

舌状台地の先端の城。周囲の湿地は今も神代植物公園の一部となって残っています。 車道になっている三郭大手道。
広大な二郭は芝生公園に。 二郭の片隅に残る二重土塁と空堀。
二郭から帯曲輪への虎口。 二郭の金網の外の崖には竪堀が残ります。
一郭虎口付近の土塁と堀、土橋。堀は埋められていたものを後世復原したものだそうだ。やれやれ・・・。 本丸にあたる一郭内は鬱蒼とした森林。周囲は土塁で囲まれています。
一郭中央付近の櫓台跡といわれる低い土塁。それにしても櫓台にしては低いし、位置も変。 一郭の虎口付近に建つ城址の碑。背後の土塁はなかなか重厚です。
深大寺周辺はまるで観光地。都心に程近い地とは思えないような雰囲気が楽しめます。 桃山時代の建築と言われる深大寺山門。

 

交通アクセス

中央自動車道「調布」IC車10分。

京王線「布田」駅徒歩20分。

周辺地情報

北条氏の対の城であった牟礼砦は若干の遺構があるらしいですが僕は行っていません。

関連サイト

 

 

 
参考文献 「日本城郭大系」(新人物往来社)、現地解説板、神代植物公園配布資料

参考サイト

奥州城壁癖城跡をゆく

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