天然の良港に恵まれた主力水軍基地

勝山城

かつやまじょう Katsuyama-Jo

別名:加知山城

千葉県安房郡鋸南町下佐久間

 

城の種別

山城(海城)

築城時期

不明

築城者

安西氏?

主要城主

安西氏、内房正木氏

遺構

曲輪、堀切、土塁

大黒山から見下ろす勝山港と勝山城<<2003年01月12日>>

歴史

治承四(1180)年に勃発した「治承の乱」における石橋山合戦で敗れ、安房に逃れた源頼朝が頼った安西景益の居城と伝わるが確証は無い。この頃の安西氏の居城は平松城かその周辺であろうと考えられている。また、安房里見氏勃興についての伝承や『里見軍記』『里見代々記』等の軍記物では安西式部大輔勝峰らの名が見え、里見義実の配下となって金山城の東条左衛門重永を攻めたとされる。また、里見義実が安房に入国した際に義実を庇護したのが安西景春であり、のちに義実が安西氏を降伏させて主従逆転した、ともされるが、義実の安房入国の時期や経緯ともあわせて不明な点が多い。

戦国期には勝山城は安西氏の居城となっていたとみられ、大永六(1526)年十二月の大永鎌倉合戦においては安西式部ら、安西氏の水軍の活躍が見られる。天文二十二(1553)年、北郡の正木兵部太輔、峰上城の吉原玄蕃助ら峰上二十二人衆らが北条氏の手引により安房・西上総に内乱を起こさせた(房州逆乱)際に、北条綱成が妙本寺付近に上陸し、妙本寺住職・日我は金谷城に避難しているが、金谷城も天文二十四(1555)年に落城、日我は勝山城沖の浮島に避難している。天正年間には内房正木氏の正木安芸守輝綱が在城していた。

慶長十九(1614)年に里見氏が改易されると、元和元(1616)年には内藤氏が入封し、勝山城直下に陣屋が営まれた。その後一時廃藩となったのちに酒井忠国が一万石で入封し、版籍奉還まで一万二千石の酒井氏領となった。

勝山漁港の北岸の大黒山になんともあやしげな天守風展望台(万木城のと形が同じ!)がありますが、本来の勝山城は漁港の南に横たわる峰の上にあります。勝山城の歴史、およびここを本拠にしたとみられる安西氏については不明な点も少なくありませんが、ある時期この勝山城と在地の海賊大将であった安西氏の水軍が、里見水軍の内房における主力であったことは間違いないでしょう。

里見水軍の基地といわれる海城はいくつか見ましたが、ここはそんな中でも最高の立地の一つと見ました。前述の大黒山と勝山城の峰に挟まれた小湾(「水浦」)には小さな河川が流れ込んでおり、この一帯が港になるのですが、前面に当たる西側には「浮島」があり、天然の防波堤になるとともに、軍港の前衛にもなり得るわけで、とくに西風の強い時なんかでも安全に港の機能をまっとうできる地形です。これほどの立地条件は滅多に無いだろう、と思わせるだけの素晴らしい条件の軍港です。

里見氏の宿敵、北条氏の北条水軍はたびたび房総に上陸、侵攻をかけていますが、この勝山城は直接戦乱の被害には遭っていないようです。やはり攻めるに難く、守るに易い地形を見て、避けたのかもしれません。里見氏は内房に造海城金谷城岡本城などの海城をたくさん持っていますが、金谷城より北は「房州逆乱」などでも見られるように内房正木氏の勢力が強く、常に不安定な情勢でした。安定して自勢力下に置ける軍港としてはこの勝山城は貴重な存在だったに違いありません。

勝山城そのものは、里見氏の海城によく見られるように本格的な山城としての特徴も兼ね備えていて、規模も小さくはありません。が、急斜面と痩せ尾根地形なので、居住に適した空間はそれほどないようにも見えます。この岩盤質の痩せ尾根を堀切でぶつ切りにした、比較的単純な構造です。主郭と見られる山頂直下の曲輪はさすがにまずまずの広さがあり、江戸湾と勝山港を一望に見渡せます。その上に祀られた神社のある区画はとても狭いため、物見や狼煙台程度の機能しかなかったでしょう。このあたりまでは神社の参道コースとしてきちんと整備されています。参道そのものは後世につくられたもので、おそらく勝山城そのものとは全く関係ないでしょう。ただ、尾根伝いの堀切なども見たいと思いましたが、まったく先が見えないガサ藪と急峻な地形、崩れやすい足許から断念しました。二郭や三郭へは獣道のような細い道を伝っていくことができます。いずれにしても、岩盤の上に腐土層が堆積していて崩れやすいため、うっかりすると転落、あるいは自分が落ちないまでも麓に落石等を起こしてしまう危険があるため(落石防止ネットもあちこちにある)、無理な見学は禁物、とみました。遺構そのものの見学には適していなそうですが、その景色や立地の素晴らしさを感じて欲しいお城です。

大黒山の展望台より見下ろす勝山港と勝山城。お城そのものは痩せ尾根地形の岩山です。眼下に天然の良港を抱えた、まさに水軍のための基地。 神社の参道を伝っていくと、神社の前庭になっている平場があります。ここが主郭にあたるのでしょう。
城内最高所附近に建つ神社。このお城との関連は不明です。この附近は尾根が非常に狭いため、狼煙台や見張り程度の意味しか持たなかったでしょう。 神社附近から見る景色。物見としては最高の立地ですね。浮島と、遠くに三浦半島が霞んで見えます。
神社裏手のごく狭い平場には意味不明な溝があります。堀にしては幅が狭いし、いったい何なんだろう? 一応堀切らしき場所にも行ってみましたが、なんせ足場悪すぎ。落石事故なんか起こしちゃマズイので、引き返しました。
二郭とされる南側へと通じる切通し。里見・正木氏系城郭に多い、岩盤掘削加工術がここでも見られます。 二郭周囲には岩盤の尾根を削り残したとみられる土塁状の障壁遺構が見られます。このあたりも里見・正木氏系ではおなじみのテクニックです。
三郭とされる海に面した谷戸にも降りてみようとしましたが、密集するボサ藪に辟易して引き返しました。 勝山港から見上げる大黒山。こっちの方がお城らしく見えたりして(あやしい天守も乗っかっているし)。
大黒山は100mそこそこですが、階段の段差が大きくて結構辛いです。あやしい天守風展望台には何組かの先客が。みんなここをお城だと思っているに違いない・・・。 大黒山には城郭遺構はない、とのことですが、どう考えても出城として使わない手はないでしょう。そう考えるとこんな平場も曲輪に見えてしまう。
妙本寺の日我も逃げてきたという浮島。これ自体も砦としての役割を持っていたでしょう。一度確かめに行きたいところです。 やはり大黒山展望台からの景色は素晴らしかった。頼朝上陸地の龍島、鋸山などが一望のもとに。
はるか鋸山から望む勝山城と浮島の遠景。いや〜、鋸山はお城マニアにも行く価値は十分ありますな。 頼朝が上陸した龍島(猟島)。武家の時代が始まる直前の、「その時」を感じてみたい場所です。

 

 

交通アクセス

館山自動車道「鋸南富山」ICより車10分。

JR内房線「勝山」駅徒歩10分。

周辺地情報

遺構の程度はともかく、妙本寺(妙本寺砦)金谷城などが近い。南へは岡本城など。

関連サイト

里見水軍の道を往く」の頁もご覧ください。

 
参考文献

「すべてわかる戦国大名里見氏の歴史」 ( 川名 登・編/図書刊行会)

「房総里見水軍の研究」(千野原靖方/崙書房)

「房総の古城址めぐり 上巻」(府馬清/有峰書店新社)

「図説房総の城郭」(千葉城郭研究会/国書刊行会

「里見軍記・里見九代記・里見代々記」(稲田篤信/勉誠出版「日本合戦騒動叢書」)

『戦国期江戸湾岸における「海城」の存在形態』(滝川恒昭、「千葉城郭研究第3号」収録/千葉城郭研究会に所収)

「日本城郭大系」(新人物往来社)

参考サイト

余湖くんのホームページ

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