父子反目の果てに隠遁

足利政氏館

あしかがまさうじやかた Ashikaga-Masauji-Yakata

別名:

埼玉県久喜市本町

(甘棠院)

城の種別

平城(変形方形居館)

築城時期

十五世紀末 

築城者

足利成氏

主要城主

足利政氏

遺構

水堀痕

甘棠院をめぐる堀<<2003年08月24日>>

歴史

もともとの築城年代等は明らかではないが、初代古河公方・足利成氏またはその家臣が太田荘防衛の為に築いたと考えられている。

明応六(1496)年、初代古河公方・足利成氏の死後、その長子・政氏が古河公方を嗣いだ。政氏は山内上杉氏と扇谷上杉氏の対立に際して、当初は扇谷上杉定正を支援したが、明応三(1488)年十月の定正の急死の後は、山内上杉顕定を支援し、明応五(1490)年五月の武蔵柏原合戦、永正元(1504)年九月の武蔵立河原合戦などで一貫して顕定を支援した。永正二(1505)年、扇谷上杉朝良は山内上杉顕定に河越城を包囲され降伏、両上杉は和睦し朝良は江戸城に隠居した。顕定は政氏の弟、顕実を養子に迎え入れて古河公方家との親和を図った。しかし、この処置や、相模で勢力を伸ばしていた北条早雲への対応をめぐって政氏と嫡子・高基が反目し、高基は永正三(1506)年四月二十三日、宇都宮成綱を頼って宇都宮城に移った。この対立に対して上杉顕定は出家して可諄と号し、両者を調停、高基は永正六(1507)年八月三日、顕実を通じて詫び状を届け、この対立は一時収束した。しかし永正四(1507)年、越後で長尾為景が守護・上杉房能を滅ぼすと、顕定は為景討伐の為越後に進撃したが、永正七(1510)年六月二十日に討ち死にした。この跡目をめぐり、顕実を支持する政氏と、もう一人の養子である憲房を支持する高基が対立、高基は簗田高助を頼って関宿城に立て籠もった。永正九(1512)年六月十七日、上杉憲房は顕実を鉢形城に攻めて追い、翌日政氏は小山成長、政長を頼って祗園城に移り、高基と対立した。高基は永正十三(1516)年十二月、古河城に強入部して実力で古河公方家を相続し、小山政長も高基派に転じたため、政氏は岩槻城に移り、出家して道長と号した。永正十五(1518)年四月、政氏の有力な支持者であった扇谷上杉朝良が死去し、政氏は久喜の足利政氏館に隠居した。政氏はこの館に永安山甘棠院を開山し、開基には貞巌和尚を据えた。貞巌和尚は政氏の弟とも、三男ともいわれる。

政氏は隠居を機に高基と和睦、永正十七(1520)年閏六月には古河城に高基を訪ね、その際に、政氏に対して高基は「殊他懇切」であったという。

政氏は享禄四(1531)年七月十八日、甘棠院で逝去した。

足利政氏というひとは歴代古河公方のなかでも最も保守的な人物だったようです。祖父・足利持氏は「あわよくば将軍に」という野望を持ち、その野望が破れてからは徹底して幕府を無視し、終に「永享の乱」で自刃、その子成氏は「結城合戦」を生き残り、関東公方家を復活させながらも、管領上杉憲忠を「父のかたき」とばかり殺害、幕府軍に鎌倉を追われて古河に移座し、ここから関東を揺り動かした爆弾男でした。その子、政氏の時代になると、幕府から派遣された宿敵「堀越公方」足利政知はすでに亡く、その子茶々丸も北条早雲に討たれ、堀越公方家そのものが消滅していました。また、長禄年間から続いた「山内VS扇谷」の上杉同族対立も、永正二(1505)年の河越城包囲によって、扇谷上杉朝良は事実上、山内上杉氏に降伏していました。こうした中、政氏は山内上杉顕定の養子に実弟の顕実を送り込むことを画策するなど、上杉との融和を図ります。しかし、これがもとで実子・高基と争うハメになり、いったんは和睦するものの、とうとう古河城を追われて小山氏や岩槻太田氏を頼って流浪することになってしまいます。この高基との対立は、上杉氏の跡目相続だけでなく、「新たな脅威」となりつつあった北条氏への対応をめぐってのもので、この新興勢力を取り込んで勢力拡大を狙う高基の野心が政氏の路線とは相容れなかった、ということでしょう。古河公方家はその代替わりにあたって内紛が発生することが多く、高基もその子晴氏と争い、晴氏もまた簗田氏息女の正嫡・藤氏と北条氏の息女から生まれた義氏が、上杉、北条の力をそれぞれバックに争い・・・。

「アンタたち、一応は関東で一番エライ人たちなんだから、しっかりしてくれよ・・・。」

という気もします。この間隙を縫って勢力を伸ばしたのはおなじみ北条早雲。だらしない古河公方家、ケンカばかりの両上杉氏を尻目に、新井城に三浦道寸を滅ぼして相模一国を手中に。おっと、この状況はどこかの国の政権政党の勢力争いに似てるぞ(笑)。ただ、「早雲」に該当する人物が居ませんがね。。。

この政氏が隠居した館、見事な堀が残りますが、城館というよりも、これは最初からお寺だと思ったほうがいいでしょうね。政氏はここに隠居しに来たわけだから。一応高貴な身分だから、お寺を城館の構えにした、と思うほうがいいのでしょう。遺構は結構しっかりしていて、とくに山門脇や西側の墓地脇の堀はきれいに草刈もされていて、見事です。この堀は空堀に見えますが、実は水堀であったそうです。このあたりは利根川旧河道(古利根川)にも近いため、湧水点が高いのでしょう。北側にも堀があるのですが、こちらは深い山林になっていて、容易に入れません。というか、こちらは現在、野生の白鷺の一大営巣地になっていて、余湖さんは「不気味な鳥」と言ってましたが(笑)、綺麗な鳥なのでバードウォッチャーの方には喜ばれているみたいです。が、遺構は見えないし、フンだらけでとても入っていく気が起きませんでした。。。ウワサでは、鷺の死骸もいっぱい落ちてるそうな。。。。こっちはお城見学は遠慮しときましょう。。。

宅地や墓地になっている東側も道路などに堀の痕が明瞭で、堀は何箇所か折れを持っているようです。東南角は堀が墓地で行き止まりになりますが、ここは墓地になっている部分を迂回するように突出した堀があったらしく、櫓台があったと見ていいでしょう。

なお、甘棠院にお願いすれば、足利政氏のお墓を「拝観」できます。この「拝観」というのがポイントで、「見せてくれ」というと怒られるらしい(たかしPart3さん情報)。くれぐれも気をつけましょう。なんでも、昭和四十二(1967)年までは木造の足利政氏像もあり、境内の御霊屋に祀られていたそうなのですが、なんと不審火で焼失してしまったそうです。ゆ、許せん!そのため、お寺の側でも防犯には神経質になっているそうで、お墓も近づきすぎると防犯ベルが鳴るしかけになっているとのこと。こちらも十分気をつけましょう。なお甘棠院には、政氏着用の甲冑をはじめ、貴重な文化財が多く伝わるそうです。こちらは多分、見せてもらえないでしょう。ソレガシも「拝観させてくれ」とは言えませんでした(笑)。

甘棠院の惣門。両脇の二ツ引両が誇らしげであります。格式の高いお寺ということで少々緊張しながら中に入ります。 山門も立派。もう、城門そのものですな。
遺構面での最大のみどころはこの山門脇の素晴らしい堀。関東ローム層をホジった水堀だったそうで、登れないくらいツルツル滑るんだそうです。 こちらは山門の西側の堀。綺麗に草刈されています。

東南の角は墓によって埋められているように見えますが、ここは堀がこの写真の向かって右に折れ、さらに背後の道路につながっていました。要するに、角が突出していたってことです。

敷地の西側、墓地脇の堀もなかなかいいです。かつては外郭もあったらしいのですが、こちらはすっかり宅地化されてしまいました。

東側の堀は埋められてしまいましたが、この道路は堀底を利用していることが明瞭です。 北側は白鷺の営巣地、堀や相横矢などの遺構もあるそうですが、鳥とヤブに降参。このネコ、昼寝してたのを起こしてしまった。スマン。
二ツ引が緊張感を高める本堂。堂宇は何度かの火災で失われ再建されたものですが、古河公方関係の寺院で残っているのはここだけ、貴重な宝物も所有しています。 緊張しながらお寺に拝観をお願いすると、親切に場所を教えてくれた政氏の墓所。晩年は高基とも和睦し、父子のシコリを解して、静かに仏門に帰依していたということです。

 

 

交通アクセス

東北自動車道「久喜」ICより車5分。

JR東北線「久喜」駅徒歩15分。

周辺地情報

強いて言えば騎西城菖蒲城が最寄りですが・・・。

関連サイト

関宿合戦」の頁もご覧下さい。余湖くんのホームページにはおなじみ「鳥瞰図」があります。

 
参考文献

「甘棠院<<久喜>>」(さきたま文庫)

「埼玉の古城址」(中田正光/有峰書店新社)

「関東管領・上杉一族」(七宮達三/新人物往来社)

「関宿城と戦国簗田氏」(千葉県立関宿城博物館)

「古河公方展 古河足利氏五代の興亡」(古河歴史博物館)

「古河公方足利氏の研究」(佐藤博信/校倉書房)

「古河市史」

「日本城郭大系」(新人物往来社)

参考サイト

埼玉の古城址余湖くんのホームページ房総の城郭

埋もれた古城 表紙 上へ