名門・加地佐々木氏の本拠

加地城

かじじょう Kaji-Jo

別名:加治城

新潟県新発田市東宮内〜麓

(藤戸神社周辺)

城の種別 山城

築城時期

鎌倉期

築城者

加地佐々木氏

主要城主

加地佐々木氏

遺構

曲輪、堀切、土塁、土橋

坂井川南岸から見る加地要害山<<2004年05月05日>>

歴史

鎌倉幕府創生期に戦功のあった宇多源氏の近江佐々木氏が加地荘地頭職に任じられ、佐々木盛綱が築城したといわれる。佐々木盛綱は建仁元(1201)年の鳥坂城における城資盛の叛乱鎮圧の総大将を勤めた。子孫は加地氏を称し、新発田氏、五十公野(いじみの)氏、竹俣氏など多くの庶流を生み出した。承久三(1221)年五月、後鳥羽上皇の院宣を奉じた酒匂家賢が郎党60名とともに願文山城(金山城)に籠城した「願文山城合戦」では、加地(佐々木)信実は幕府軍総大将である北条朝時を補佐して籠城軍と闘い軍功を挙げた。

応永三十(1424)年、足利幕府将軍の義量と関東公方・持氏の関係が悪化、越後においても室町幕府に与する守護・上杉房朝と関東公方に与する守護代・長尾邦景が対立した。守護方の上杉頼藤は奥州の伊達持宗の援軍を得て、加地氏を、新発田氏ら加地佐々木氏一党や黒川城の黒川基実、鳥坂城の中条房資らに守護代方の山吉行盛の守る三条城攻撃を命じられ参戦したが、加地氏、新発田氏は黒川氏らと語らい軍を引き上げ、鳥坂城主の中条房資らを窮地に陥れている。

戦国期には加地春綱が謙信の妹(姉?)を娶って重く用いられ、その子秀綱は川中島合戦にも参陣した。天正三(1575)年の軍役帳では158人の軍役を負うなど、中条氏などの近隣諸将よりも軍役高が多かった。しかし、謙信死後の「御館の乱」では上杉三郎景虎に味方し、景勝に味方した新発田重家、五十公野道寿斉らに奇襲され落城した。天正九(1581)年、新発田重家が織田信長・芦名氏の調略に呼応して上杉景勝に対して挙兵すると、加地秀綱もこれに加担して景勝と対抗した。景勝は新発田重家の本拠・新発田城攻撃に先立ち、天正十五(1587)年九月七日に加地城を攻め落城、加地秀綱は討ち死にした(新発田重家の乱)。秀綱死後は景綱が家を嗣いだが、文禄三(1594)年の上杉定納員数目録には「「加地某662石」としか記されておらず、直参家臣から格落ちしている。慶長三(1598)年、上杉景勝の会津移封には同道せず土着した。慶長五(1600)年の関ヶ原の役前夜の会津討伐の際に会津上杉氏に呼応し、竹俣壱岐守らとともに越後での旧臣一揆に加担して上杉氏移封後に越後に入封した堀氏らと闘ったが敗れ、景綱は万休斎と称して隠居、正保四(1646)年、87歳で死去した。

加地城主の加地氏は現在の新発田市、加治川村を中心とした加地庄地頭として栄え、新発田氏、五十公野氏、竹俣氏などの多くの支族を輩出した名門でした。しかし、御館の乱後、上杉氏に叛旗を翻した一族の新発田重家の乱で上杉氏と対立、景勝の軍勢に攻め込まれ落城します。その後は上杉氏に仕えたようですが直臣扱いではなかったらしく、軍役帳でも「加地某」とナニガシ扱いされています。上杉氏の会津移封後は多くの諸侯が会津へ同道する中、加地氏はこの地に残ります。その後のことはよく分かりませんが、一族の中には帰農したか、あるいは新発田城に入城した新発田藩・溝口氏の藩士になった者もいたことでしょう。

加地城は日本一小さな山脈・櫛型山脈の南端に位置し、加治川・坂井川などの加治川水系の河川が織り成す広大な氾濫原を眼下に控える絶好の場所にあります。かつてこの加治川水系は大きく南に蛇行して阿賀野川に注ぎ込んでいました。またすぐ北には広大な塩津潟(紫雲寺潟)を控え、その先は奥山荘に繋がっています。つまりこの加地荘と加地城は、水運で新潟津から加地荘内全域、そして奥山荘まで水運で結ばれる、重要な位置を占めていました。いまや塩津潟は干拓で跡形もなく美田に生まれ変わり、加治川も開削されて直接日本海に注いでいるため、当時の面影は加治川の旧河道である新発田川にわずかに見られるだけになってしまいましたが、新発田重家の叛乱では、この水運をフルに活用して新潟津(現新潟市)から三条島(現三条市)までに至る広大な範囲を占拠し、景勝を大いに苦しませています。加地要害山の南500mには坂井川が流れていますが、その旧河道は要害山の山麓を取り囲むように流れていました。この旧河道は現在は水田となっていますが、周囲に比べて非常に低地で、田植え前の水の張られた景色を見ると、まるで深い沼のように見えます。

2002年5月5日に再訪。加地城の要害山へのアプローチは、藤戸神社付近から「学びの山道」という山道が通じており、山頂付近は下草も刈られて、新発田市周辺の広大な平地を見渡すことができます。はじめて行った際にはこの道が草だらけで安全をとって見学を断念しましたが、今回はきれいに草も刈られ、歩きやすい道になっていました。多少急な箇所もありますが全体に歩くのは楽で、藤戸神社から20分強で山頂に達します。見学に来られる際は、この藤戸神社をまず目印にするといいでしょう。要害山そのものはどこから見ても中世山城の格好をしているので、多分すぐわかると思います。

2004年3月21日、雪解け直後の加地城を歩いてきました。鳥瞰図ほか、掲載します。

【加地城の構造】

加地城平面図(左)、鳥瞰図(右)

※クリックすると拡大します

加地佐々木氏累代の居城である加地城は櫛形山脈南端、標高165mの通称「要害山」にある。眼下には加地庄・菅名庄の広大な低地と福島潟・塩津潟などの湿地帯を臨む位置にある。現在は南に500mほどのところを加治川支流である坂井川が流れているが、中世期には坂井川は要害山直下を流れ、加治川(当時の新発田川)とは合流せずに塩津潟へと流れていた。直接的にはこの坂井川を天然の外堀としている。

要害山へは山麓近くの藤戸神社から自然観察道「学びの道」が延びている。この道は自然観察のために整備されたものであるが、一部を除いてほぼ当時の大手道に相当するだろう。居館は藤戸神社の東300mほどの段丘上にあったらしい。そこは現在墓地になっていて、改変が甚だしく構造は読み取れない。しかし、現在の藤戸神社も恐らく城域の一部として取り入れられていたと推測する。

加地城の要害は大堀切3によって、大きく二つに分かれている。この地方には要害部を高低の二つの城域に区画して「奥要害」「前要害」と称している例が多く認められる(猿沢城大川城黒川城など)。多くは更に居館部も防御力の高い館城とし、居館部の背後の高台には物見を兼ねた陣地を備えている。加地城も構造的にはそうした城のひとつであると考えられる。この加地城でいえば、墓地となっている居館部、その後ろ盾である藤戸神社、さらに堀切3の西側、Y曲輪を頂点とする前要害、東側のT曲輪を頂点とする奥要害、ということになるだろう。

最高所の主郭であるT曲輪は30m×30mほどの広さがあり、この地方の城郭としては広い方に入る。主郭からは三方に尾根が延びており、西側の尾根が大手筋にあたると思われる。この西側の尾根には数段の小曲輪を設け、その下段には大堀切3に面して小規模な外枡形虎口があり、大堀切3を通過する土橋と接続している。この虎口の頭上には土塁を伴う小曲輪があり、敵の侵入を頭上から抑えている。主郭の北側から西側にかけては広い曲輪Uがあり、北側に延びる尾根にはV〜Xの曲輪群と堀切9〜12が続いている。最も防備が厳重なのはこの北側の櫛形山脈に続く尾根で、複数の曲輪、堀切、出丸とも解釈できるW曲輪などが延々と続く。この尾根は途中で大きく東に向きを変え、加地城との関連が想定される麓城、滝城などに繋がっている。この方面の防御が固いのは櫛型山脈からの尾根伝いの攻撃を遮断するためであろう。具体的には中条氏への脅威に備えたものか。応永の乱や上杉定実の後嗣をめぐる対立で、加地氏や新発田氏らの佐々木一族と中条氏はよく対立していたようだ。更に新発田重家の乱に際して、敵主力である色部・本庄・築地らの勢力に備えたものかもしれない(菅谷城の頁参照)。ただし、概して堀切等の施工規模は大きくはない。東南側の尾根は二条の堀切があり、その先は急激に下っている。

城内を二分する大堀切3は堀底幅10mにも達する巨大なものであるが、完全に人工のものというよりも自然の谷戸地形を利用して加工したものだろう。ふたつの城域は土橋によってのみ繋がっている。前要害に当たる西峰の最高所、Y曲輪の大堀切側には櫓台状の土壇がある。その曲輪を中心に、半円形に桟敷段状の帯曲輪が取り巻いている。基本的に旧い構造ではあるが、この西峰だけでも立派にひとつの山城として成立しそうな体裁である。この西峰には竪堀6がある。また、この桟敷段状の曲輪の最下段の南西側は、塁線から想像すると連続竪堀が設けられたかもしれないが、山腹の崩落によりはっきりとはわからない。ただ、堀4・5の連続堀切などを見ても、旧い山城に改修を加えた跡が見てとれる。

加地城は決して大きな城でも技巧的な城でもないが、名門の本拠に相応しい内容を備えている。おそらく上杉氏による直接的な改修は行われていないと思われるため、純粋な揚北の国人領主による築城手法を見ることができる。多少の崩落や埋没はあっても遺構はほぼ完存状態であり、この地方の典型的な山城を見る上で貴重な存在である。

[2004.07.10]

坂井川南岸より見る加地城とその周辺。加地城(要害山)はお椀を伏せたような、典型的な中世山城の形をしているので、遠目でもすぐわかると思います。坂井川は現在は加治川支流となっていますが、かつては要害山直下を流れ、塩津潟に注いでいました。

要害山の麓の田はかつての坂井川旧河道。いまでもまるで深い沼田のように見えます。正面の墓地がある微高台地が居館とされています。

藤戸神社参道入り口に簡単な解説があります。右手の林道は車両通行禁止。見学は林道よりも参道の階段を登ってしまった方が楽です。この神社自体、館城として城域に取り込まれていたと考えています。

藤戸神社右手の植林地に建つ石塔。結構大きいので加地城の目印の一つになります。「古城の月高楼の夢加治要害山」と刻まれています。

「学びの道」を少し歩くと鞍部の連続堀切、堀切1・2に出ます。「学びの道」によって若干改変されています。

西側の峰の見学路沿い多く見られる腰曲輪。斜面が急なので大きなものはあまりありません。

わかりにくい写真で恐縮ですが竪堀(堀6)です。この附近にも堀切や段曲輪などの遺構が沢山あります。

西峰の塁壁、どうも連続竪堀に見えるんですが、山腹の崩落が激しく判然としません。 西峰の最頂部となるY曲輪、加地城全体の「前要害」の中核部に当たります。大堀切3に面して、櫓台状の土壇があります。

藤戸神社の峰と要害山を断ち切る巨大な堀切3。藪化していますが、底幅10m以上の大きなものです。 大堀切3をまたぐ細い土橋。この大堀切は多分に天然の地形を活用したものでしょう。

大堀切3から、加地城の主峰に取り付く虎口。「学びの道」によって若干改変されていますが、向かって左手の堀底状の通路が本来の道。堀に面して小規模な枡形状のスペースがあります。

主郭の一段下、西側から北側にかけて広がるU曲輪。

主郭虎口を上から見下ろす。切通し虎口に狭い外枡形を伴なっています。

標高165mの主郭からは、加地荘全体を見渡すことができます。ここからは三方に尾根が伸びており、それぞれに堀切や曲輪が見られます。

山頂から、田植えの頃の新発田市方面を見る。田んぼの水がかつての広大な低湿地を髣髴とさせるではありませんか。新発田城は完全な平城で、詰の要害は持ちません。いざというときにはこの加地城の存在が心強かったに違いありません。

東南に伸びる尾根上の堀切8。ここから先は麓まで急な尾根道となります。

北に延びる尾根にも延々と城郭遺構が続きます。これは堀切9。

尾根上に細長く延びるV曲輪。この先の尾根はアップダウンを繰り返しながら、櫛形山脈方面に伸びています。 堀切10の西側の谷戸には湧き水が出ています。水の手として機能したでしょう。

突角陣地であるX曲輪の北の堀切11、北側の堀切で最大です。 北側の尾根が最も低くなる鞍部の堀切12、実質的にここまでを城域と見ていいでしょう。
坂井川の土手上を走る国道290号沿いに「加治城跡」の標柱がありますがたぶんほとんどの人は気付かないでしょう。それより地元の人に藤戸神社の場所を聞くほうが確実です。田んぼの中の道は非常に狭いので、3ナンバーの車なんかでは来ない方がいいでしょう(曲がりきれずに田んぼに落ちるかも)。

 

交通アクセス

JR白新・羽越線「新発田」駅よりバス。

日本海東北道「新発田聖籠」IC車20分。

周辺地情報

新発田氏滅亡後、近世城郭に生まれ変わった新発田城には本丸表門、二層の櫓が現存、幻の御三階櫓、巽櫓が復元されました。隣接地域の奥山荘については「奥山荘歴史の広場(江上館)」で情報収集してから近隣を見学しましょう。

関連サイト

加地氏の出自に関しては家紋World参照。中世観測衛星「えちご」』コーナーの「新発田重家の乱」もご覧下さい。

 

参考文献

「上杉謙信と上杉鷹山(花ヶ前盛明・横山昭男/河出書房新社)

「図説・中世の越後」(大家健/野島出版)

「日本城郭大系」(新人物往来社)

「新潟県中世城館跡等分布調査報告書」(新潟県教育委員会)

「菖蒲城物語」(角田夏夫/北方文化博物館)

参考サイト

家紋World

埋もれた古城 表紙 上へ