お万の方、崖を下る

勝浦城

かつうらじょう Katsuura-Jo

別名:

千葉県勝浦市浜勝浦

(八幡岬公園)

城の種別 海城

築城時期

不明

築城者

不明(真里谷氏?)

主要城主

真里谷氏、正木氏

遺構

曲輪、堀切

太平洋に突き出た勝浦城<<2002年09月01日>>

歴史

築城時期等は不明。もともとは上総武田氏の一族、大多喜城主・真里谷朝信の属城だったとされるが、天文十一(1542)年頃、正木左近大夫時忠が攻略し、正木氏は大多喜城を本拠とする正木時茂(時忠の兄)系の大多喜正木氏と勝浦城を本拠とする時忠系の勝浦正木氏に分かれた。時忠は天文十一(1542)年十二月に「かつうらのねんく代」を徴収している。

勝浦正木氏は大多喜正木氏とともに里見氏に属し、天文年間から永禄年間にかけ東下総に侵攻し、小見川に城砦を構えて六年間占拠したというが、その時期や東下総侵攻の実態はよくわかっていない。また勝浦正木氏は内房にも出撃拠点を持ち、金谷城を属城としたが、天文二十二(1553)年の「房州逆乱」の後、金谷城は内房正木氏へと譲渡された。

永禄七(1564)年の「第二次国府台合戦」で里見氏が北条氏に大敗すると、正木時忠は里見氏を離反し、北条氏に通じ、伊豆に五男の邦時(のちの頼忠)を人質として差し出した。同年十二月には時忠の嫡男・時通が一宮城を攻略して正木大炊介を没落させたことが上杉謙信書状に見える。北条氏政は伊豆から勝浦城に軍船を回航するなどして、勝浦正木氏を支援している。

天正四(1576)年八月一日に正木時忠が没すると、天正年間初期頃に再び里見氏に属し、天正七(1579)年ごろ、小田原に人質に出されていた頼忠が帰国して城主となった。大多喜城主・正木憲時が里見義頼に叛旗を翻した「正木憲時の乱」では、里見義頼に属し、先鋒として金山城吉宇城の攻防戦に参戦した。このとき、勝浦城は一時正木憲時に攻め取られたともいう。

天正十八(1590)年の小田原の役では里見氏に属したが、里見氏の上総没収によって勝浦城は廃城とされ、植村泰忠が勝浦に陣屋を構えた。

なお、頼忠の女、養珠院(通称「お万」)は伊豆で北条氏の人質となっていたが、北条氏の滅亡により徳川家康の側室として召しだされ、紀伊徳川家の祖となった徳川頼宣、水戸徳川家の祖となった徳川頼房を生んだ。

勝浦城は勝浦湾の東南端に突き出た険しい崖、八幡岬の突端に築かれています。ここは東上総最大の水軍城ですが、その地形ゆえか、城内は大して広くは無く、遺構も鮮明ではない印象です。八幡岬は非常に幅の狭い半島状の岬で、広い平坦面が取れる場所もほとんどない痩せ尾根が続いています。この尾根を堀切で断ち切って城域を確保しているのですが、現在公園として開放されている場所はこの尾根筋ではなく、城内を通る道も新たに遊歩道を作って曲輪間を繋いでいる様子です。従って、遊歩道沿いには殆ど遺構らしい遺構は見られません。恐らく藪化している尾根に攀じ登れば、堀切や虎口等の遺構があるものと思われますが、藪が深い上、地形が地形なので無理は禁物、あまり積極的に遺構を探そうとはしませんでした。しかし、「八幡岬公園」の北側の集落はかつての勝浦の港町で、そのそばの浜が水軍基地であったといわれ、その集落と浜を取り囲む尾根筋や背後の入り組んだ谷津も勝浦城の城域の一部であるとの見方もあります。どちらかといえば、個々の遺構よりも切り立った崖に築かれた地形そのものや荒波押し寄せる太平洋、軍港であった勝浦湾などの全体の景色・地形が最大の見所と言えるでしょう。

もともとは真里谷武田氏系の一族の属城と思われ、真里谷武田氏の一族である真里谷朝信がいたらしいことが伝えられていますが、相次ぐ一族内訌での真里谷武田氏の衰退とともに安房から上総へ勢力を伸ばしつつあった里見氏の将、正木大膳亮時茂の弟、正木左近大夫時忠により攻略されます。これによって里見氏にとって、西から佐貫城久留里城大多喜城勝浦城という「上総国防圏」が形成されます。第二次国府台合戦の敗戦と勝浦正木氏の離反によって、一時この「国防圏」は脅かされますが、概ねこのラインが機能していたと見ることができます。

その後の勝浦城には様々な疑問があります。そもそも「第二次国府台」の敗北後、里見氏を離反した勝浦正木氏がいつ頃再び里見氏に帰順したかについてもはっきりとはわかっていません。この離反行為の影には、内房の金谷城の支配権をめぐる内房正木氏との同族対立などもあったようです。少なくとも里見義頼の代、天正八(1580)年の「正木憲時の乱」の頃には小田原に人質に出ていた正木頼忠は勝浦城に戻っており、対正木憲時の先鋒として活躍したりしていますので、一応、三船台合戦後から相房和睦あたりまでの期間に里見氏に再び属するようになった、と考えるべきでしょうか。この当時は相房和睦がまだ機能しており、頼忠は平和的に勝浦城に帰ることができたのではないかと考えます。しかし、「小田原の役」には里見氏に与していた筈で、ここで「お万」伝説に矛盾が出てきます。

「お万」とは正木頼忠の女で、のちに徳川家康の側室となって紀伊徳川家の祖・頼宣、水戸徳川家の祖・頼房を生んだ女性です。このお万は、勝浦城の落城に際し、断崖絶壁を白布を伝って海上に逃れた、という「お万布晒し」伝説が有名です。多くの書ではこの「お万布晒し」を、小田原の役のときのこととし、地元ではこれを哀しんで旧暦八月十五日の月見を遠慮する風習がある云々、というのです。

「お万」伝説については、なぜ反北条であった里見氏の属城である勝浦城が攻撃対象になったのか、この時期再度頼忠は里見氏から離反したのか、お万伝説の「旧暦八月十五日」は小田原合戦はとうに終わっているのになぜ?などの矛盾がつきまといます。正木頼忠がこの時期に里見氏を離反したとは前後の状況から考えにくいことです。とすると、お万伝説は「別な事態」を想定すべきかもしれません。そのひとつは天正八(1580)年の「正木憲時の乱」、このときに正木憲時は勝浦城を攻め取った、とも云われており、数え年四歳のお万が誰かにおぶわれて崖を下って逃げた、と考えれば整合性が取れそうです。

また、「関八州古戦録」「房総治乱記」などによれば、天正末期に「正木左近大夫正春(正康)」なる人物が里見氏に叛旗を翻し、勝浦城で義頼の軍勢と戦い、敗れて清澄山で山岳ゲリラとなり、軍船を建造して鑓田美濃守の居城である小浜城を襲った云々、とありますが、時代的にこの時期の勝浦城主は頼忠のはず。「左近大夫」は勝浦正木氏代々の官途ですが、このような人物がいたかどうかは大いに疑問、仮に「左近大夫正春」が実在したとしたら何者なのか、また事実誤認であれば永禄七(1564)年の勝浦正木氏の反里見行動、あるいは大多喜城主・正木憲時の乱を表わしているのか?そもそもこの話、どこまで本当なのか?よくわかりません。

さらに一言、余計なことを言えば、「お万布晒し伝説」そのものが「・・・・どうなんだろうな・・・・・」という気がしないでもありません。長々論じておいてこんな結論で恐縮ですが。。。。

勝浦湾から見る勝浦城の遠景。南に細長く突き出た「八幡岬」先端部分が城址です。 遺構が少ない分、ルックスで勝負!?というわけでもないですが、碧い海と断崖絶壁に守られた姿はどこから見ても絵になります。
とある民家の庭先から撮らせてもらった写真。この半島がいかに幅が狭く、険阻な地形かがわかりますね。 岬の先端部、八幡岬公園が主郭。先端は海蝕でかなり失われていると思われます。遥かに横たわる雄大な水平線が最大の見どころ!
「お万布晒し」の崖。本来はもっと北東斜面ですが危険なため立ち入り禁止。荒波打ち寄せる断崖絶壁をどんな想いで降りたことか。 青空をバックに立つ勝浦の「人」、お万の方こと養珠院夫人。あのぉ、ちょっとお聞きしますが、ホントに降りたんですかぇ、あの崖?それはいつ頃の話?
二郭相当の曲輪も公園になっています。この崖の下には小さな舟溜りがあります。 八幡神社参道入口に建つ「勝浦城址」ならびに「養珠夫人誕生の地」の碑。
八幡社の建つ頂は一応城内最高所ではありますが、城郭遺構はよくわからない。 三郭は駐車場に。こちらも改変(または自然の浸蝕)が激しいと見るべきでしょう。
右上写真の駐車場右手の尾根上にあった堀切?な地形。ここに行くには崖をよじ登らなくてはなりません。しかし、堀切というより、トンネル開通前の切通しの古道ではないかと思います。 岬の付け根、鳴海神社の参道入口は正真正銘の堀切ではないかと思うのですが・・・。
三郭あたりから見る勝浦湾口。対岸には支城の吉宇城があります。手前のてテトラ附近が小型軍船の舟溜りと考えられている場所です。 勝浦湾を見渡す。東総最大の軍港かつ商業港、今でも「海の幸」を届け続けてくれています。

 

 

交通アクセス

東金有料道「東金」ICより車60分。

JR外房線「勝浦」駅徒歩20分。

周辺地情報

西側対岸の吉宇城には若干の遺構があります。

関連サイト

 

 
参考文献等

「すべてわかる戦国大名里見氏の歴史」 ( 川名 登 編/図書刊行会)

「さとみ物語」(館山市立博物館)

「図説房総の城郭」(千葉城郭研究会/国書刊行会

「房総の古城址めぐり(上)」( 府馬清/有峰書店新社)

「新編房総戦国史」(千野原靖方/崙書房)

「房総里見水軍の研究」(千野原靖方/崙書房)

「戦国関東名将列伝」(島遼伍/随想舎)

「日本城郭大系」(新人物往来社)

「関八州古戦録 原本現代訳」(ニュートンプレス)

「南総里見氏の城と女」(戸田七郎・相澤林蔵/新人物往来社)

「正木時茂・時忠の東上総支配について」(千野原靖方・『千葉県の歴史31』/千葉県企画部に所収

参考サイト

余湖くんのホームページ房総の城郭

埋もれた古城 表紙 上へ