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自らの城を守れずして死す

榎本城

                                                  

えのもとじょう Enomoto-Jo

別名:水代古城

北城附近の堀

<<2003年06月21日>>

所在地

栃木県栃木市大平町真弓

埋もれた古城マップ:栃木編

交通アクセス

東北自動車道「佐野藤岡」IC車または「栃木」IC車15分。

JR東北線「大平下」駅徒歩30分、東武日光線「新大平下」駅から徒歩25分。

行き方・注意点

法王寺の南南西約280mの宅地隅に城址碑と解説板。
住宅地の隅に石碑・解説板。遺構は宅地・農地に散在しておりやや分かりにくい。

【基本情報】

築城年 文治元(1185)年、または永禄元(1558)年 主要遺構 土塁、水堀の一部
築城者 小山判官宋長、または榎本高綱 標/比/歩 標30/比0/歩0
主要城主 小山氏、榎本氏、近藤氏、児玉氏、本多氏 現況 宅地・農地

【歴史】

永禄元(1558)年に祗園城の支城として小山氏の一族、榎本美濃守高綱によって築かれたとされるが、出土した板碑からは応永年間や永享年間のものがあったといい、築城年代はさらに遡ると考えられている。あるいは、小山判官宋長が文治元(1185)年八月十八日に築城し、その後水谷宮内権太夫の居城となり、永禄元(1558)年に小山入道高朝が築城し、次男の美濃守高綱を城主としたともいう。

永禄六(1563)年の上杉謙信による祗園城攻めに際して、皆川城主・皆川山城守俊宗が榎本城を攻略した。また、翌永禄七(1564)年十一月十六日には皆川俊宗は北条氏政の命に従って榎本城を攻め、三日間にわたる戦闘ののち榎本高綱は討ち死に、嫡子・高満は皆川俊宗の降伏勧告に従って開城し、その後は北条氏に与した。天正五(1577)年四月、唐沢山城主の佐野宗綱が榎本城を攻め、榎本高満は小田原城に逃れた。北条氏は唐沢山城を攻めたが、榎本城を奪回できぬまま帰陣した。天正七(1579)年には佐竹・宇都宮・真壁氏らと同盟した結城晴朝が祗園城榎本城を攻め、祗園城の内宿まで攻め入った。その後、天正十一(1583)年正月一日、佐野宗綱は足利城の長尾顕長を奇襲しようとして須花坂で狙撃を受けて討ち死にし、北条氏は榎本城を奪還したが、榎本高満を帰還させずに近藤大隈守実方を榎本城主に任じた。

天正十八(1590)年の小田原の役では、榎本城主・近藤出羽守綱秀は四月ごろまで榎本領の支配に関連していたらしいが、その後、北条氏照が不在の八王子城に入城、山下曲輪・アシダ曲輪を守備していた。六月二十三日、前田利家、上杉景勝らの北方軍に攻められ、八王子城は落城、綱秀も討ち死にした。城主不在の榎本城は留守兵が守っていたが、結城城主・結城晴朝に攻められ落城した。

その後は結城家に養子として入った結城秀康の領地となり、家臣の児玉庄左衛門が慶長八(1603)年まで在城、いったん廃城となった後に慶長十(1605)年、宇都宮城主・本多正純の弟、本多大隈守忠純が一万八千石で入城し再興された。忠純は大坂冬の陣・夏の陣での戦功により二万八千石に加増されたが、宇都宮城主の本多正純が元和元(1622)年八月に改易となったことで江戸城に呼び出され、その途上の利根川の中田の渡しで家臣により刺し殺された。この事件により榎本城は幕府に召し上げられ、永見主計頭らが榎本城受け取りに出向いた。この後、加賀前田家家老の本多阿波守の次男主税介が養子として本多家を嗣いだが、主税介も駿府城在番を命じられている間の寛永十六(1639)年に病死、本多家は断絶し榎本城も廃城となった。

【雑感】

榎本城はもともと小山氏の祗園城の支城でしたが、永禄・天正年間頃に激化した北条氏の北関東攻略戦の中で、皆川城主の皆川俊宗によって攻略され、同じく祗園城を攻略した北条氏照の属城となりました。この当時の氏照の本拠は武蔵滝山城でしたが、氏照は関宿合戦などでも方面軍の総大将として活躍し、北関東攻略の中心的な役割を担いました。従って、氏照には八王子周辺を中心とした武蔵西部と、栗橋城・祗園城を中心とした下総・下野方面の、ふたつの本拠地を持っていたことになります。

榎本城祗園城の西北にあたり、いわば反北条勢力に最も近い「境目の城」の役割を負うことになります。ここに氏照の信任を得て入城したのは近藤大隈守、出羽守綱秀でした。近藤氏の出自は調べてみましたがわかりませんでした。しかし、この地の豪族ではなく、北条氏照に従って滝山城に入った北条氏の譜代家臣か、あるいは氏照が滝山城主となったときに氏照の元に帰服した武蔵の豪族、あるいは大石氏の家臣団だったかもしれません。いずれにしても近藤綱秀は氏照の家老格で、信任篤い人物であったようです。氏照の外交面での折衝役も務めていたようで、天正十三(1585)年には伊達政宗股肱の臣である片倉氏との交渉パイプなども握っており、また氏照からは特に赦されて「天福」という印判を用い、一門並みの決裁権・行政権が与えられるなど、特別な存在であったそうです。

そんな綱秀は「小田原の役」に際し、自らの居城である榎本城を守備することもなく、主君氏照の代理として、八王子城に入城します。外交に長けていたという綱秀のことですから、豊臣軍がどれほど大軍であるか、榎本城を後にする綱秀は知っていたでしょう。それでも主君氏照の留守を務め上げるべく、悲壮な覚悟で榎本城を発ったことでしょう。八王子城での綱秀の持ち場は山麓の「アシダ曲輪」「山下曲輪」でした。当然、押し寄せる豊臣軍北国隊の真正面を受けて立つ形となり、激しい戦闘の後、綱秀は討ち死にします。八王子城の戦闘において、最初の将校クラスの犠牲者でした。

主を失った榎本城は結城晴朝に攻略され、結城領に併呑されます。後に残った家臣たちがどれくらいいたのか、どんな戦闘があったのか、などは分かりませんが、おそらく百人から二百人くらい、城兵は主が不在の中、ある者は討ち死にし、ある者は城を棄てて逃れて行く、そんな感じじゃなかったかと想像します。いずれにせよ、敬愛する氏照のためとはいえ、家臣や家族を見殺しにし、自らの城を守ることもできずに八王子城で果てた綱秀は無念というか、悲壮な気持ちで死に臨んだことでしょう。

榎本城は榎本集落付近の田んぼの中の西側に位置しており、現在給水用の鉄塔が建つあたりの北側から集落の中央付近まで、往時は東西613m、南北396mにも及ぶ壮大な平城だったそうです。しかし現在では耕地整理によって遺構はほとんど消滅してしまいました。現在残っているのは、田んぼの中に前述の給水塔北側の土塁の一部があるのと、榎本集落と真弓集落の境目附近の城址碑周辺に数十mの堀が残っている程度です。前述の土塁のそばで農作業をしていたオバチャンに「榎本城はここですか?」と聞いてみたところ、「ここだよ、ここ」という答えが返ってきましたので、遺構がほとんど消滅した今でも地元ではきちんと知られているようです。そのオバチャンによれば、耕地整理前は高い土塁が附近の永野川の方まで延々と連なっていた、とのこと。ああ、惜しいことをしたものよ・・・。

耕地整理ですっかり近代的な田んぼに変身した中で、島のようにポツンと残る土塁。 左写真の土塁。手前は一段高く、畑になっていました。背後に見える給水塔が場所の目印です。
土塁の南側の田んぼはどうも堀っぽく見えるなあ・・・。 榎本城の西を流れる永野川、って言っても水は全くなく空堀みたい。このあたりは河川や湿地に囲まれた場所であったようです。
さて帰るか、と思いきや、な、なにやら怪しい地形が!これは行ってみずばなるまい! おお、城址碑がきちんと建っている!解説板(碑の後ろだから読みづらい)まで。しかもこの背後の藪の中には・・・。
おお、藪化しているものの素晴らしい堀があるではありませんか!幅も広いし塁壁も高い!このあたりがどうやら「北城」らしい。 この堀底が平らなのは、空堀ではなく水堀(泥田堀)だったことを示しているのでしょう。
堀の対岸には高い塁壁の上に櫓台がせり出しています。が、民家の敷地なのでさすがにこの先は遠慮させて頂きました。。。 よく見れば、城址碑の手前の畑にも微妙な高低差があります。堀を埋めた痕かも??
訪城記録

(1)2003/06/21

(2)2009/04/18 

参考サイト

 

参考文献

「下野戦国史 -皆川広照の生涯 」(大森隆司/下野新聞社)

「栃木の城」(下野新聞社)、「日本城郭大系」(新人物往来社)

「真説戦国北条五代」(学研「戦国群像シリーズ」)

現地解説板

推奨図書
       

     

戦国時代の終焉 - 「北条の夢」と秀吉の天下統一 (中公新書(1809))   

北関東における北条氏VS反北条氏の対陣となった「沼尻の合戦」を中心に、「小田原の役」までの関東と中央政局の動きを描く。榎本城も登場する。

周辺地情報

小山市側なら祗園城鷲城は必見、栃木市では皆川城がオススメ。

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