小山義政、執念の挙兵

鷲城

わしじょう Washi-Jo

別名:

栃木県小山市外城

(鷲神社周辺)

城の種別

平山城

築城時期

応安五(1372)年頃(?)

築城者

小山義政(?)

主要城主

小山氏

遺構

曲輪、土塁、空堀

思川に面した鷲城<<2002年07月07日>>

歴史

鷲城の築城時期は明らかではない。応安五(1372)年に小山義政は武蔵国太田荘の鷲宮を修築しており、この神を本城に勧進して鷲城と名づけたということであるから、この頃鷲城が成立したものと思われる。

この頃、小山義政と宇都宮基綱は下野守護職とその所領を廻って対立関係にあった。義政は、関東公方・足利氏満が小山氏の所領であった河辺荘を奪い、上杉氏に与えたことから憤慨、密かに兵を集め康暦二(1380)年五月、祗園城で挙兵し南朝に通じた。これを聞いた宇都宮基綱は祗園城を攻めるために侵攻、五月十六日、両軍は下野裳原(茂原)で激戦となり、小山軍は二百三十名を超える戦死者を出したが、宇都宮軍は大将の基綱はじめ弟、重臣など八十名が討ち取られ敗走した(裳原合戦)。

事態を重く見た鎌倉公方・足利氏満は六月一日、関東八カ国および奥州に布令して、関東管領上杉憲方を総大将に、上杉朝宗、木戸法季らを命じ祗園城を攻めさせた。八月十二日に大聖寺にて陣取り合戦、八月二十九日には小山義政屋敷西木戸口、鷲城で合戦となり、九月二十一日、義政は宇都宮氏との争いで兵力を損耗していたため降伏した。鎌倉府の軍勢は九月二十九日に撤退した(第一次小山義政の乱)。

しかし義政は氏満に謝罪に赴くことをせず、祗園城からより堅固な鷲城を修復して反抗の姿勢を示したため、氏満は十二カ国に命じて追討軍を派遣、永徳元(1381)年四月末から五月始めにかけて鎌倉府軍は佐野天命、岩船山に着陣、五月二十七日には児玉塚に在陣した。六月十五日、将軍足利義満の御教書を得て「白旗一揆」らを従え自ら出陣、武蔵府中高安寺に着陣した。六月から七月にかけて木沢河原、千町谷、中河原、粟宮口などで合戦、八月十二日には鷲城の東戸張口で合戦、八月十八日には鷲城の外城および新城(長福城か)が陥落した。八月二十二日にも鷲城帳口で合戦、また十月十五日には野戦が行われ、鷲城に放火、「切岸」合戦が行われた。十一月十六日、鎌倉府軍は鷲城の外城城壁を破り内城に侵入、十二月六日には「堀埋」合戦が行われた。十二月八日、再び義政は降伏、出家隠居し「永賢」と号し、子の若犬丸に家督を譲り祗園城に退去した(第二次小山義政の乱)。

小山氏は守護職と旧領を召し上げられたが、これを不服として翌永徳二(1382)年三月、祗園城を自焼し若犬丸とともに上都賀郡の粕尾城に立て籠ったが、四月中旬に再々度上杉朝宗、武州白旗一揆に攻められ、四月十一日義政は櫃沢城に逃れるが、四月十三日義政は自刃、若犬丸は奥州へ逃れた(第三次小山義政の乱)。

逃亡した若犬丸は至徳三(1386)年、突如祗園城に戻り挙兵、氏満自ら下総古河城に出陣、若犬丸は小田孝朝を頼り常陸小田城に逃れた。若犬丸を匿った小田孝朝は嘉慶元(1387)年七月、南朝勢力の残党を集めて常陸難台山城で立て籠ったが嘉慶二(1388)年五月に落城、若犬丸は再び奥州へ逃れ、応永四(1397)年に会津にて自刃した(小山若犬丸の乱)。

この乱の後の鷲城については不明。

小山氏は現在の小山市周辺にたくさんのお城を持っており、どの時代にどのお城を本拠にしていたのかは今ひとつ謎です。最も初期の本拠は、現在「曲輪」と呼ばれている居館であったらしいですが、この鷲城祗園城中久喜城などがいつ築城され、それが小山氏の支配体制の中でどういった位置付けであったかは判然としません。一般に「小山城」というと祗園城を指すケースが多いのですが、鷲城祗園城、その間を繋ぐ長福城などの思川沿いの城砦群を総称して小山城、と見る向きもあります。

この鷲城はそんな中でも、戦国時代が到来するはるか以前に、計三回に及ぶ小山義政の乱で攻防の舞台となったバリバリの実戦のお城です。特に第二次小山義政の乱においては、埋め草を放り込んで堀を埋めようとする鎌倉公方連合軍と鷲城に立て籠もる小山義政軍の間で堀際の激しい戦闘がありました。この頃、祗園城もすでに存在していたようですが、より実戦的な籠城戦の場所としてこの鷲城が取り立てられていたようです。

小山義政の乱のきっかけは康暦二(1380)年五月の宇都宮基綱との戦い、裳原合戦が発端となります。その背景には両者の境界争い、とくに農業水利権をめぐる争いがあり、小山氏側の領民が殺害されたことが発端であったようです。しかし、私戦を厳しく取り締まっていた鎌倉公方・足利氏満が介入することで、両者の争いは大規模な戦争に発展してしまいます。まして、現任の守護大名が討ち死にとあっては、関東を統治すべき鎌倉公方としては、黙っているわけにもいかなかったでしょう。余談ですがこの氏満という男、実は室町幕府将軍職に野心満々、時の将軍義満にもしっかり警戒されている人物でした。京都の管領職をめぐる争いに介入して、あわよくば将軍の座をも狙っていましたが、関東管領上杉憲春の諌死によってビビってしまい、あたかも野心などないように振舞うなど、なかなかのヤマ師でした。そんなこんなで、この小山氏と宇都宮氏のローカル抗争にも積極的に介入して、少しでも幕府の覚えを良くして置こうという「得点稼ぎ」の意味合いもあったでしょう。氏満は関東諸将だけでなく奥州まで軍令状を発布しており、並々ならぬ意欲が感じられます。

これに対し小山義政はまず康暦二(1380)年六月に挙兵、祗園城鷲城小山義政屋敷などで抗戦します。結局、三ヶ月の抗戦の後、義政は降伏し、関東に平和が訪れるかに見えましたが、この平和は長続きせず、翌年に再び義政は挙兵します。氏満は将軍直属の「白旗一揆」まで動員し、総力戦で義政討伐に向かい、前述のとおり鷲城をめぐる激しい攻防が展開されました。結局はこのときも半年以上に及ぶ抗戦の末、義政は降伏し、今度こそ平和が訪れると思いきや、またしても義政は挙兵、今度は自ら祗園城に火を放ち、嫡子若犬丸とともに思川上流の粕尾城に立て籠もります。もはや前国主のプライドも、代々の所領も、勝算さえもかなぐり捨てた、意地の挙兵でした。さすがに頭にきたか氏満、総力戦で義政討伐に向かい、義政はこの山間の小城で切腹し果てたとも、近くの川原で討たれた、ともいい、娘の芳姫についての悲話も語られるところです。なぜ義政がここまで執拗に抵抗したのかは推し量ることもできませんが、二回目の降伏の際に氏満が行った処分が非常に重く、それに耐えられなかった、と言われます。このときに上杉朝宗らは氏満に総大将に任じられながらも何度も固辞しているそうで、第三者の目から見てもなにか腑に落ちないような、過酷な処分があったのではないか、とされています。一説に南朝に鞍替えした云々というのもありますが、当時関東においては南朝勢力はほとんど駆逐され、組織立った抵抗が出来るだけの自力はありませんでしたので、これはコジツケに過ぎないようです。

しかしこの乱、まだまだ終わらない。奥州に逃れた若犬丸(隆政と名乗ったという)はどこでどう力をつけたか、四年後に祗園城回復の兵を起こします。この「小山若犬丸の乱」も収束に十一年もかかっており、結局小山氏を巡る戦争は二十七年も続いたのでした。若犬丸の七歳と五歳の子らは捕らえられ、江戸湾の六浦の海に沈められて処刑されるという悲話もあり、この話をもとに左阿弥なる能作家は「安犬」という謡曲を書いた、という後日譚もあります。

その後の鷲城がどうなったのかはわかりませんが、規模は非常に大きなお城ながら、戦国期に見られる複雑な遺構が無いことから、祗園城の支城として堀の規模などが改修されただけの状態で一定期間利用されたのではないかと思います。いずれにしても祗園城の直線的で複雑な縄張と対比すれば一目瞭然、戦国期には大きなウェイトを持っていなかったことは明らかです。その縄張はふたつの巨大な曲輪を土塁と空堀が囲むもので、古いながらもかなり壮大な規模のものが見られます。特に主要部である「内城」と外郭である「外城」を断ち切る堀は驚くほど規模が大きく、残存度も良好です。反面、外城は宅地化され、最外郭部は土塁や堀の痕跡が点在するだけとなりました。内城だけでも結構広く、遺構の見所も多いので、祗園城とともにぜひ立ち寄って頂きたいお城です。

思川に架かる国道50号バイパスの小山大橋から見る鷲城。川に突き出た堅固なお城です。それにしても川の中の釣り人、気持ちよさそうだなぁ(笑) 鷲神社参道入り口。このあたりはすでにもう内城(主郭)の一部です。
鷲神社参道入り口脇の畑には一段低い場所があり、埋められた堀であることがわかります。 広大な内城の真ん中を仕切るように伸びる堀。埋まっていることを差し引いても規模は大きくなく、城内の仕切り程度の意味を持つものでしょう。
広大な内城と高い土塁。畑なので立ち入れずちょっと遠いですが、かなりの規模の土塁であることがわかるでしょう。 小山義政が武蔵太田荘から勧進したという鷲神社。武蔵太田荘は小山氏の先祖の所領の地で、鷲宮は小山氏の崇敬する守護神であったそうです。
「横矢」とありますが戦国期のようなはっきりしたものではありません。むしろ虎口の頭上を押さえる櫓台とみていいでしょう。 思川河畔から内城へと向かう虎口。脇には枡形虎口の原型ともいえる武者溜りがあります。
河原に面した堀。堀というよりも川側に土塁を盛ったものと見た方が正解です。 この堀は途中で大きな段差があります。写真奥が河原に土塁を盛ったもの、手前は台地をくり抜いた堀です。
内城最大の見所である堀。いや〜素晴らしい。別段公園化されているわけでもないのにゴミは落ちてないし、何よりこの規模は驚きです。 同じく内城の堀。南北朝期のお城というからもっと素朴なものを想像していたのですが、なかなかどうして壮大です。もっともある程度、戦国期にも拡張されていたんでしょうが。
外城はほとんど宅地化していますが、内城の堀に沿って部分的に土塁も見られます。 この住宅地を南北に伸びる何の変哲も無い道路は、かつての城内通路だと考えられている道だそうです。
たまたま車を停めた場所の横が外城の櫓台でした。外城の遺構は部分的に残っています。 左の櫓台の下には小さな水路が藪に埋もれていますが、ここが外城の堀跡です。
右上写真の堀跡を反対側の西側から。石垣は遺構じゃないですよ(あたりまえか)。 「外城二号墳」近くの土塁。ここらへんの土塁はそんなに規模は大きくないです。

 

 

交通アクセス

東北自動車道「佐野藤岡」IC車20分。

JR東北新幹線・東北線・水戸線「小山」駅から徒歩30分。

周辺地情報

祗園城は必見、途中の長福城も見ていきましょう。

関連サイト

 

 
参考文献 「鷲城・祗園城・中久喜城」(鷲城・祇園城跡の保存を考える会/随想舎)、「日本城郭大系」(新人物往来社)、「結城一族の興亡」(府馬清/暁印書館)、「関東管領・上杉一族 」(七宮達三/新人物往来社)

参考サイト

  

 

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