さよなら関東、さよなら謙信

羽生城

はにゅうじょう Hanyuu-Jo

別名:

埼玉県羽生市東

(天神社)

城の種別

平城

築城時期

天文年間初期

築城者

広田直繁

主要城主

広田氏、木戸氏、成田氏、大久保氏

遺構

なし

天神社と城址の碑<<2003年08月03日>>

歴史

羽生城の築城時期は明らかではないが、三宝荒神像に天文五(1536)年の広田直繁、忠朝の名があり、この当時広田式部大輔直繁が城主だったとみられる。天文年間には古河公方足利氏の勢力下にあったものと思われるが、天文二十三(1554)年、北条氏康が古河城を攻略した際に羽生城も落城し、中条出羽守が城代として置かれた。永禄三(1560)年、上杉謙信が関東に侵攻し、羽生城も陥として中条出羽守を追い、広田直繁、木戸忠朝兄弟に安堵した。その後、謙信の十数回に及ぶ関東侵攻の際には、羽生城主広田氏と皿尾城主木戸氏は軍役五十騎を課せられ、つねに参陣している。元亀元(1570)年二月、広田直繁は上野館林城に移り、木戸忠朝が羽生城に移った。

元亀三(1572)年、相越同盟が破棄され、八月、北条氏政は羽生城を攻めようとした。謙信は木戸忠朝に救援に赴くことを伝え、羽生城の守備を一層厳重にするよう命じた。しかし、下総栗橋城主の北条氏照軍により大敗し、木戸忠朝は上野金山城へ敗走した。天正元(1573)年、北条氏政はふたたび羽生城を攻め、周辺の深谷城の上杉憲盛も降伏したため、状況はさらに悪化した。

天正二(1574)年、「第三次関宿合戦」において、簗田持助は佐竹義重・上杉謙信らに救援を求めたが、利根川の増水や、金山城主・由良成繁の離反により積極的な支援ができず、謙信は羽生城に陣を構えて佐竹義重らに同陣を呼びかけたが、佐竹義重が謙信の心変わりを警戒して共同作戦が取れず、簗田氏はとうとう関宿城を開城し水海城へ撤退した。謙信は羽生城が越後から遠く、救援が間に合わないのを恐れて破却し、木戸忠朝以下一千の城兵を上野膳城に移した。

謙信撤退後は天正三(1575)年、忍城主の成田下総守氏長の支配下に入り、城代として成田大蔵少輔長親、善照寺向用斎、野沢民部らが置かれた。

天正十八(1590)年の小田原の役では城代の善照寺向用斎は成田氏長の命により羽生城を棄てて忍城籠城に加わった。天正十八(1590)年八月、徳川家康が江戸城に入城すると、羽生城には大久保忠隣が二万石で置かれた。忠隣は文禄三(1594)年に父・忠世の死によって家督を嗣いで小田原城に移り、羽生城主も兼務した。大久保彦左衛門忠教も一時居住したという。慶長十九(1614)年、大久保忠隣は改易に処され、羽生城は破却され、天領となった。

羽生城のあった羽生付近はかつて、利根川が「会の川」と「合の川」に分流し、その河川の流れも氾濫のたびに変わるという、水郷地帯でした。この大河川がのたうち回るデルタ地帯は、文禄三(1594)年の「会の川締切」を端緒とした「利根川東遷事業」の過程ですっかり姿を変えましたが、今でも地形図を見れば、かつての川の蛇行痕や両岸に発達する自然堤防がよくわかります。

羽生城のあった場所はすっかり区画整理されてしまい、もはや遺構らしきものは見当たりません。天神社の祀られる付近が天神曲輪だったとのことですが、周囲はすっかり宅地や工場に姿を変え、水に囲まれた壮大な平城であった姿を偲ぶものは皆無といっていいでしょう。

しかしここは、上杉と北条が激戦を繰り広げた地でもありました。恒例行事のように関東に出陣する上杉謙信、しかし北条は松山城岩槻城などの要地を徐々に押さえ、さすがの謙信もじりじりと武蔵の北部に追い詰められていきます。そして武蔵最後の拠点となった羽生城は、「関宿合戦」の敗北によって、謙信自らの手で破却されてしまいます。「越後からでは救援に間に合わない」「敵の手に渡るよりは・・・」ということなんでしょうが、毎年のようにやって来た謙信にしては、随分とネガティブな発想の行為ですね。というか、同盟軍のはずの佐竹氏には信用されないし、由良氏のように背後で叛く連中はいるし、もうヤル気なくして「関東なんてどうでもいいや、や〜めたっ!」っていう感じだったんでしょうか、結局謙信はこれを最後に、「恒例・関東ツアー」を取りやめて、二度と三国峠を越えることはありませんでした。

我が越後の御屋形様、ほんとうにそれで良かったんでござろうか。。。。

「史跡羽生城址」の碑と「城橋」の碑、そして簡単な解説板。これが現在の羽生城のすべてです。背後の天神社附近も歩いてみましたが、遺構らしき痕跡は見当たりませんでした。

解説板に描かれている古図。沼沢地がお城を取り囲み、堀が幾重にも廻る姿が描かれています。区画整理がなくても、洪水などでだいぶ押し流されていたでしょうね。

 

 

交通アクセス

東北自動車道「羽生」ICより車10分。

東武伊勢崎線・秩父鉄道「羽生」駅徒歩15分。

周辺地情報

忍城とその周辺の「石田堤」など。

関連サイト

関宿合戦」の頁もご覧下さい。

 
参考文献 「日本城郭大系」(新人物往来社)、「埼玉の古城址」(中田正光/有峰書店新社)

参考サイト

埼玉の古城址帝國博物学協会 城郭研究部

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